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です。こうした埴輪の問題は、東山道ルートの維持管理を東側の勢力が担ったのか、西側の勢力が担ったのかという政治的な背景を考える上で重要な手がかりにもなりますので、考古学では特に重要視されています。5.前方後円墳の主は名をもたなかったさて、松島王墓古墳に葬られた人物は誰だったのでしょうか。残念ながら同時代の文字記録はありませんし、西暦8世紀の前半に編纂された『古事記』や『日本書紀』などにも、この古墳の主を推定させるような記録はみあたりまぜん。もとより日本列島全域を見渡すと、前方後円墳の総数は5,200基以上もあります。伊那谷をみても、下伊那の飯田地域には25基の前方後円墳が密集しまず。ですからどの古墳が誰の墓だったのかを知るのは非常に難しい、というのが実情です。なおこの点について私が注目すべき現象だと考えるのは、日本の前方後円墳には墓標がないことです。この時代、すでに漢字は日本列島に持ち込まれており、各地の支配者の多くは漢字を使いこなし始めていたことも確実です。しかし前方後円墳のどれからも墓碑は発見されません。最大の前方後円墳で、その主は仁徳天皇だといわれる大阪府堺市大山陵古墳であっても同じです。この古墳の主が仁徳天皇だと断定できる証拠はあません。『古事記』に記された所在地の記載から、そうではないかと推定されているだけなのです。所在地が同じ巨大前方後円墳は他に2基あって、どれとも定まらないというのが実情です。こうした様相と対極にあるのが古代中国です。皇帝陵や皇后墓などには、入り口に石造りの門構えがあり、そこが誰の墓なのかは、墓碑として明記されるのが通例です。朝鮮半島の王陵についても同様です。こうした事実と比較すると、前方後円墳に墓碑がいっさい見られないことは注目すべき現象です。5,200基を超える前方後円墳のどれひとつをとってみても、墓碑の発見はありません。その意味では、誰の墓なのかの明示をあえて避けることが、前方後円墳という墓制の特徴だといっても差し支えないものと思います。いいかえれば前方後円墳とは、特定の個人や英雄を偲んだり顕彰したりといったような性格の墓ではなく、それを作り上げた人々全員が共同で祭り、その主から御利益が得られることを期待する、といった性格の宗教的な施設だったと考えたほうがすんなり収まるようにも思います。もちろん古墳の主には生前に活躍した人物が選ばれたのでしょうが、彼ないし彼女自身が崇拝の対象だったのではなく、特別な祭りによって彼らの霊を共通の神格に昇格させるといった、魔術的な演出を伴って造られた墓が前方後円墳なのではないか、とも考えます。こうした演出によって生み出された神格は、強いていうなら大和王権全体を冥界から守護する役割を負い、生前の固有名を捨て去り、王権の始祖に連なる存在になったとはいえないでしょうか。死後、生前の名を捨て戒名が与えられる、というのは私たちにも馴染み深いことですし、名を呼ばないことが聖なる証である、という点についても、キリスト教の「主」が固有の名を持たないことと似ています。先に紹介した交通路との密接な関係が指摘できるのは、こうした性格、要するに道を通過する物資や人々を共通の守護神として保護し、物流の繁栄を保証する役目を負わされたからだといえるのではないか、とも思います。今後は、今紹介したような宗教的側面からの研究も必要になることでしょう。6.今も昔も変わらぬ社会の姿今話題のリニアモーター線がもうすぐ部分開通するようです。まさしく21世紀型“新幹線”の登場です。そうはいっても、南アルプスの地下をトンネルで抜けて飯田市域に中間駅が設けられることとなったこのリニア路線は、長野県にとっては必ずしも歓迎すべきルートでなかったようです。諏訪湖回りのルートを要望したものの、それが叶わなかったからです。このように、新時代を切り開く新路線の決定にあたっては、そこから生まれる経済効果が期待されるので、その恩恵にあずかるために思惑が絡まり事態が紛糾することも珍しくありません。1,500年まえの伊那谷でも、リニア線の設置にまつわる経済効果とよく似た問題や現象が生じた可能性は高いと思います。その場含、原東山道はリニア線に、馬はリニアカーに、駅はリニア駅にあてはめて考えることができるでしょう。このうち駅の設置場所は、地元側の思惑とは別に、路線全体のなかで適所とされるところが選ばれたと考えられます。そのひとつが松島の追分付近であった可能性が高いことは、非常に重要だと思います。地元にとっては思わぬ経済効果が生まれ、繁栄の舞台になったと推定されるからです。古今東西を問わず、富や利益は商取引によって生まれます。駅の付近一帯には物流を背後で支えるさまざまな物資も集まりますし、宿の設置も不可欠だったでしょう。交易の拠点にもなったはずですから、富が生まれる場として栄える環境が生まれたはずです。その交易拠点としての市が立つ場所は、非日常的な空間とされ、その中でなら商取引が許されるという特別な空間でもありました。そのような場所だからこそ、松島王墓古墳が築かれ、特別な空間を象徴する宗教的施設として機能した、ということかもしれないと、私は秘かに考え始めています。古今東西を問わず、社会を動かす力は物流および交易にあると考えられるからです。このたびの松島王墓古墳に関する40周年企画展示に関連し、私の見方を紹介させていただきました。なんらかのご参考になれば幸いです。