松島王墓を考える

松島王墓を考える - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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陸路と河川を伝う河川航路とが交わる場所のごく近くであったりするのです。こうした特徴は、前方後円墳が造られた西暦3世紀後半から6世紀末までの約300年間をとおして普遍的であることがわかってきました。そのため交通網との関係を考えてみる、という視点は、松島王墓古墳がなぜこの地に築かれたのかを考える際にも重要な手がかりになる、といえるでしょう。2.原東山道との関係その際に浮上してくるのが古代東山道との関係です。この道路は現在の滋賀県草津市勢多を大和側の起点とし、宮城県多賀城市に築かれた古代「多賀城」までを結ぶ内陸ルートです。日本列島を縦断する幹線道路で、要所要所には中継拠点としての「駅」が設けられました。この道が国家の直営「官道」として整備されたのは西暦8世紀(奈良時代)ですが、それ以前にも実質的な幹線道として成立していたことは確実で、それを原東山道と呼びます。この原東山道は、北の端が多賀城よりもさらに北方に延びていたようで、西暦5世紀の中頃には現在の岩手県胆沢市(角塚古墳・中半入遺跡)にまで到達したと推定されています。さらに内陸ルートを道路として使うために、もっとも重視されたのは馬でした。重い物資を輸送するうえでまことに力強い味方だったからです。この馬もまた、西暦5世紀の中頃に、おそらく朝鮮半島から馬飼いの民とともに日本列島にもたらされたと推定されています。事実、下伊那地域には朝鮮半島からの渡来民が馬を連れ、馬の飼育場(牧)を造り上げたと考えられる遺跡や、馬を犠牲に捧げたと推定される遺構などがいくつか残されています。このように内陸ルートの開拓と馬の導入が密接に関係することは興味深く、当時の馬は陸上輸送には不可欠な、最新鋭の運搬手段として注目されたことを物語っています。下伊那地域で発見される牧跡や須恵器など、西の大和側から持ち運ばれた文物の様子からみて、伊那谷がこの原東山道ルート上にあたることは間違いなく、上伊那地域にも後の駅に類する経路上の拠点が設けられたと考えるべきです。ですから、このような観点からも松島王墓古墳が築かれた場所の意味を考えてみる必要があるものと思います。3.深沢駅との関係そのような見方をとりますと、この松島北端の場所は、ちょうど古代東山道に設けられた「深沢駅」推定地付近でもあることが注目されます。西暦8世紀代に整備された古代東山道は、松島王墓よりも西に2kmほど離れた現春日街道付近を通りますが、それ以前の「原東山道」は、現国道153号線(旧道)付近の一段低い河岸段丘上を通っていた可能性もあります。このことを念頭においてみれば、「深沢駅」は、善知烏峠越えで塩尻・松本方面に向かうルートと、天竜川沿いに岡谷や下諏訪方面へ、あるいは有賀峠越えで上諏訪方面へと向かうルートとのちょうど分岐点にあたると理解できます。さらに天竜川を舟によって伝う河川航路と陸上道路とが交差する場所でもあったと考えることができるかもしれません。そのような見方をとれば、松島王墓古墳が築かれた場所は、原東山道の要衝を見下ろす位置にあったといえるかと思います。周囲には交易場としての市が立つこともあったでしようし、当時最新鋭の運搬手段として重視された馬の飼育場もあったかもしれません。今後、こうした見方に沿った研究も必要になるだろうと思います。4.埴輪が語ること松島王墓古墳には多数の埴輪が置かれ、墓で執り行われた厳粛なお祭りをひときわ格調高く彩ったものと推定されます。いわゆる素焼きの装飾品ですが、現在、この古墳には円筒埴輪・朝顔形埴輪・人物埴輪・馬形埴輪・器財形埴輪など各種の埴輪が立て並べられていたことがわかっています。この埴輪も、大型の前方後円墳に認められる特徴です。小規模な古墳に用いられることはさほど多くありません。その意味でも、松島王墓古墳は伊那谷でも有数の格式を誇る前方後円墳だとして注目されています。なお埴輪のプロポーションや作り方(技法)を細かく観察すると、それぞれの古墳に並べられた埴輪がどのような系譜のもとで作られたのかがわかります。大和王権側や関東の毛野勢力など、埴輪制作の本場から埴輪専門のプロ集団が派遣されたであろうと推定される場合もあれば、何世代か前に信濃地域に持ち込まれた埴輪づくりの技法がそのまま地元で伝えられたものもあります。さらに他の古墳でもちいられた埴輪を見様見真似で作り上げた可能性が高いものまで、熟練度に沿った仕分けができます。なおこの場合の熟練度とは、見せる部分を大仰に表現し、見えない部分で巧妙な手抜きをおこなうといった、装飾品である埴輪を多量に生産することに適した“技”を身に付けることを指します。ですから調理用の土器づくりとは異質で、たとえば土器作りに慣れた人が見様見真似で埴輪を作ると、手抜きを知らないために内側が非常に丁寧な仕上げになったり、逆に分厚い埴輪になったりして、必要以上の労力と粘土が必要になります。松島王墓古墳の円筒埴輪・朝顔形埴輪、さらに人物埴輪や器財形埴輪をみると、熟練度が高く、関東地域の有力な前方後円墳で見られる埴輪と非常によく似ていることがわかります。ですから毛野勢力から派遣された埴輪工人が古墳の近くに窯を築き、埴輪制作にたずさわった可能性もあるかと思います。ただし馬形埴輪だけは例外です。足が細すぎるので全体のバランスは悪かったと推定されるのです。この埴輪を作り上げた人は、馬には馴染んでいたとしても、洗練された技法を知らなかった可能性が濃厚


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