松島王墓を考える

松島王墓を考える - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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古代の牧大和政権下では、文武天皇4年(700)に、諸国に牧場を定めて牛馬の放牧を行ったとされていますが、こうして設置された牧場のことを牧といいます。10世紀に作られた『延喜式』には、岡谷牧や望月牧など、信濃国には16の牧があったとされ、その中には、山鹿牧(山鹿郷)や笠原牧(弖良郷)のように、古代の郷と同じ場所であると思われるものもあります。『魏志倭人伝』には、わが国にははじめ牛や馬はいなかったと記されていますが、古墳からの出土品には、馬具等の鉄製品や、馬の形象埴輪等もあることから、古墳時代には既に馬が飼育されていたと考えられます。牧場を開発し、馬を飼い・繁殖させるには、相当の年月を要するものと思われることから、奈良・平安時代の牧も、それ以前(古墳時代)の馬の生産を基盤として、徐々に整備されたものと考えられます。伊那谷の古墳と原東山道701年の大宝律令の制定により、畿内と各地を結ぶ官道である東山道等七道が正式に置かれました。そして、約20キロごとに駅家が置かれ、人と馬が配置されて、公用の使者が利用するようになりました。こうした官道は、単なる人の行き来だけでなく、物資の輸送に大きな力を発揮したものと思われます。律令時代の長野県内の東山道のルートは、御坂峠を越えて伊那谷に入り、伊那谷を北上して松本平に至り、さらに保福寺峠を越えて東信地方に入り、長倉(軽井沢)を経て上野(群馬)方面へ至るものと考えられています。東山道は、畿内と信濃や関東地方、さらには奥羽地方を結ぶ重要な官道であり、牧と同様に、律令時代以前にも、その基となる「原東山道」ともいうべき道が存在したのではないかと老えられます。そして、その重要性が大和政権に理解され、官道として整備されるようになったのではないかと考えられます。信濃の東山道沿線には牧が多く、東山道の重要な役割の一つとして、信濃等の東国で生産した馬を畿内に供給する役割があったものと考えられます。こうした観点から原東山道を考えた場合、飯田・下伊那地方の前方後円墳は、伊那谷の入口であり、馬の集積地たる場所に位置しています。また、松島王墓や青塚古墳は、馬の一大生産地である伊那谷が終焉する、もう一方の付け根の場所に位置しています。仮に前方後円墳等に埋葬された地方の有力者が、畿内政権の影響を受けて、当地の政治や馬の生産等に関係していたと考えた場合、道は伊那谷を北上し、松島王墓付近から岡谷方面に向かい、青塚古墳に至り、和田峠方面へ続いていったとは考えられないでしょうか。そして、この原東山道ともいうべき道が、律令時代に至って東山道として整備されていった可能性が考えられます。東山道は、近世以前における日本の大動脈の一つであり、それぞれの時代の権力者等も、この道を押さえて、その力を確固たるものにしていきました。まさに、日本の歴史の中心にあったともいうべきこの道の原型は、古く古墳時代に遡り、郷土の史跡である松島王墓も、それに関係していたと推測されます。松島王墓古墳がこの地に築かれた理由を考える東海大学文学部主任教授北條芳隆1.伊那谷の最北端に築かれた前方後円墳松島王墓古墳は、西暦6世紀の中頃、今からおよそ1,500年前に築かれた前方後円墳です。墳丘の長さは60m、後円部の高さは7mあり、北側一帯には周溝がめぐります。古墳とは貴人を葬った墓だといわれますが、遺骸を埋めた場所は後円部の中心部にあると推定され、松島王墓古墳の場含、内部には南側に入り口を設けた横穴式石室が埋まっている可能性が高いと思われます。横穴式石室とは、ちょうど飛鳥の石舞台古墳でお馴染みの墓室です。なお古墳には前方後円墳のほかに前方後方墳や方墳、円墳と呼ばれる三つの形態があり、身分や格式に応じて作り分けられたと推定されますが、前方後円墳は最上位におかれる形態で、規模も大きなことが特徴です。そのため松島王墓古墳に葬られた人物はいったい誰だったのか、歴史に名を留めた人物が1,500年前の松島の地に来訪し、この地を治めたのではないか、との疑問が自然に湧いてきます。なおこの問題については最後に触れることとして、先に進みます。ところで前方後円墳が築かれた場所には、ある共通性が認められることを最近の考古学は明らかにしています。それは海上航路や陸上交通路の要衝との密接な対応関係です。前方後円墳が築かれる場所は、必ずといってよいほど海上航路の主要な港(であったと推定される場所)を眼下に収める丘の上であったり、潮の流れが急な難所を見下ろす岬の突端であったりします。陸上交通の場合は平野部から山道に向かう玄関口であったり、


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