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馬の生産について馬具とは、馬に付けられた騎乗用及びそれに附属する装具のことで、轡・鏡板・鞍・鐙・杏葉・馬鈴等があります。当時、馬は鉄と共に物流及び戦闘手段として大変重要なもので、馬具を古墳に埋葬することは、権力の誇示でもありました。長野県内で出土した古墳時代の馬具は、全国で出土した馬具の2割以上を占めますが、この内3割以上が飯田市を中心とする飯田・下伊那地方で出土しています。5世紀後半の「馬の墓」と思われる土坑(新井原4号土坑)のほか、古墳の周溝や古墳周辺の土坑から、5世紀後半以降の馬の埋葬例が30近く見つかっています。こうしたことから、5世紀後半にはこの地方において、馬の生産を基盤とする集団が存在していたものと思われます。上伊那地方では、伊那市富県地区の如来堂古墳から出土した轡が、新井原4号土坑から出土した轡と形状が類似しており、5世紀後半のものと考えられます。さらに6世紀に入ると、町内の羽場の森古墳や源波古墳等の比較的小さな円墳からも、副葬品としての馬具が多くみられるようになります。このことから、馬を生産する技術は、5世紀後半には上伊那地方にも伝わり、6世紀に入ってから定着していったのではないかと考えられます。こうしたことから、伊那谷をはじめとする信濃は、古代における一大馬の生産地であった可能性が考えられます。こうした馬の生産は、在地勢力の意思によるものではなく、畿内政権が、この地域の人々に馬の生産を行わせたのではないかと思われます。そして、馬の殉葬が大陸や朝鮮半島で行われた風習であることから、馬の生産には渡来人が深く関与していたと考えられています。新井原4号土坑轡・杏葉(飯田市教育委員会蔵)如来堂古墳出土轡(伊那市富県)鉄馬(伝古墳時代・伝伊那市富県)(上伊那教育会蔵・伊那市創造館寄託)(上伊那教育会蔵・伊那市創造館寄託)源波古墳出土轡(箕輪町)古墳群と古代の郷大化の改新(645)や大宝律令(701)を経て成立した律令制度の下では、信濃国等の国が置かれ、国の下に全国で550余の郡が置かれ、さらにその下に郷が置かれました。平安時代の承平5年(935)に撰述された『倭名類聚鈔』(流布本)には、現在の南信地方にあったとされる郷として、以下ものが記されています。伊那郡……輔衆伴野(土毛野)麻績(乎美)福智(布久地)小村(乎無良)諏訪郡……土武(土無)佐補美和桑原(久波波良)神戸山鹿(也末加)弖良これらの郷については、正倉院御物の庸布(税として納めた布)に記された天平10年(738)の墨書に、「信濃国伊那郡小村郷交易布一段」とあることから、遅くとも8世紀には伊那郡と小村郷があったことが明らかであり、その他の郷も同じ頃にはあったと考えられます。このうち、伊那郡福智郷は、伊那市富県に南福地・北福地という地名が残っていることから、現在の伊那市富県・東春近地区が該当するのではないかと考えられています。また、諏訪郡弖良郷は、現在の伊那市手良地区ではないかと考えられています。上伊那地方で突出して古墳数が多い伊那市富県・東春近地区と手良地区は、いずれも古代の郷があったと考えられている場所でもあり、古墳群と郷は関係があるものと思われます。手良地区には、古来から「弖良公」という渡来人が居住したという伝承が残っており、『新撰姓氏録』には、「弖良公百済国主意里都解四世孫、秦羅君之後也」と記されています。また、手良中坪の竜ノ沢という地籍には「大百済毛」「小百済毛」という地名が残っています。さらに、富県地区の出土と伝わる鉄製の馬がありますが、こうした馬は、大陸や朝鮮半島で多く出土しています。渡来人は馬の生産に深く関与していたと考えられていることから、こうした場所では、渡来人の指導のもと、馬の飼育が行われていたものと考えられます。なお、古代の伊那郡と諏訪郡の境界は三峰川付近であったと考えられているため、古代の弖良郷や、現在の箕輪周辺にあたるのではないかと考えられている美和郷は、いずれも諏訪郡に属していました。