松島王墓を考える

松島王墓を考える - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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Ⅳ周辺の古墳・遺跡から考える古墳群の時代古墳のうち、一基だけで存在している古墳を独立古墳、複数の古墳がかたまって造営されているものを古墳群と呼んでいます。松島王墓が造られた古墳時代後期は、群集墳の世紀とも呼ばれ、小さな古墳群が各地に無数造営されました。松島王墓には、現在陪塚が1基認められますが、現在の追分付近には、龍宮塚と呼ばれる古墳があったという伝承があることや、明治時代に作成された松島村の村絵図に古墳と思われる小山が複数描かれていること等から、かつては複数の古墳からなる古墳群であったと考えられます。このほか、箕輪町内には、多くの古墳があったとされる長岡古墳群をはじめ、三日町上棚、木下一の宮、下古田等に、2~3基からなる小規模な古墳群が存在したものと思われます。そして、こうした古墳群の周辺には、必ず古墳時代の集落があったものと思われます。箕輪町の古墳と集落遺跡箕輪町内には、現在27基(消滅含む)の古墳があったことが確認されています。このうち前方後円墳は松島王墓1基で、残りは全て円墳です。17基は天竜川左岸の段丘上にあり、中でも長岡区には、最も多い11基(現在確認出来るのは8基のみ)の古墳があったとされています。これに対し、天竜川右岸の古墳は、松島王墓を含めた10基で、多くが天竜川、又はその支流の段丘上に位置しています。古墳と、古墳時代の遺物が採集された遺跡の分布を見比べると、古墳の周辺には、必ず古墳時代の遺跡が存在することがわかります。特に、松島王墓が位置する段丘の一段下の段丘面(旭松食品~郵便局箕輪町の古墳と古墳時代の集落分布図周辺)からは、古墳時代の土師器や須恵器が多く採集されており、この面に集落があったのではないかと考えられています。同じ段丘面にある仲町遺跡からは、5世紀後半の住居跡が見つかっており、5世紀中頃以降の前方後円墳が数多く存在する飯田市でも、集落と思われる遺跡は、古墳より一段下がった段丘面にあることが多いことから、箕輪町でも同様の傾向があるのではないかと考えられます。中山遺跡の住居跡箕輪中学校の体育館改築工事に先立ち、平成24年9月に中山遺跡の第4次発掘調査が行われました。調査の結果、平安時代初期(9世紀頃)の住居跡(カマドのみ)1軒と、古墳時代後期(6世紀初頭)の住居跡1軒が見つかりました。中山遺跡では、過去3回の発掘調査が行われ、縄文時代中期の住居跡と平安時代初期の住居跡が見つかっていましたが、古墳時代の住居跡は、今回の調査で初めて発見されました。この住居跡からは、焼けた木材や炭中山遺跡出土の土器化物が確認され、火災で焼失した住居であることがわかりました。出土した土器には、坏や高坏、甕など、日常生活で使う道具が多くありましたが、ミニュチュア土器や土鈴、玉類等のように、非日常的な祭祀等に使われたと思われる道具も出土したことから、祭祀的な性格も備えた住居跡であると考えられます。このように、松島王墓と同じ段丘上で古墳時代後期(6世紀初頭)の住居跡が見つかってい土鈴ることから、今後、松島王墓と、中山遺跡や仲町遺跡の関連性を解明していく必要があります。


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