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青塚古墳の伝承松島王墓が上伊那地方唯一の前方後円墳であるのと同様に、諏訪地方唯一の前方後円墳が下諏訪町にある青塚古墳です。全長は59.1メートルで、松島王墓とほぼ同様の規模を測ります。諏訪大社下社秋宮の近くに位置していることもあり、『信濃奇區一覧』には、次のように記述されています。下諏方大祝金刺氏は神姓なりしが、欽明天望の皇子金刺玉社務職たりしより金刺を姓とす。この記述によれば、下社の最高位の神官である大祝は神姓であるが、欽明天皇(敏達天皇の父)の皇子金刺玉の時から金刺を姓としたと記されています。金刺玉という名は史料に見つけることはできませんが、敏達天皇の兄弟に当たる人物が下社大祝の始祖下社と青塚古墳の位置図という伝承は、松島王墓を考える上でも、考慮する必要があるかもしれません。なお、青塚古墳についても、王塚が訛って青塚になったという伝承が伝わっており、松島王墓と同様に、当時(江戸時代)から大きな権力者の墓という認識があったことがうかがえます。舎人について諏訪大社下社の始祖とされる金刺氏や、信濃にゆかりのある他田氏は、金刺舎人・他田舎人と呼ばれています。舎人とは、皇族等の側近として仕え、警備や雑用等に従事していた人たちのことで、律令制度の確立以前から存在し、当初は東国の中小豪族等から出されていたと考えられています。金刺舎人は欽明天皇の宮(磯城島金刺宮)に使えた人物、他田舎人は敏達天皇の宮(他田幸玉宮)に使えた人物のことと思われ、地元に戻った後も、仕えた天皇の宮を冠した名を名乗ったものと思われます。こうした金刺舎人や他田舎人を名乗る一族は、奈良時代以降も信濃の名族として活躍することになります。舎人は、宮廷に奉仕するという仕事がら、皇族の姫等を娶る機会があったかもしれません。松島王墓に残る頼勝親王の伝承についても、単純に皇子と考えるだけでなく、こうしたことも考慮する必要があるかもしれません。蒲生君平と国学江戸時代中期には、古学復興の思想が次第に盛んになり、国学勃興の気運が起こりました。その中心となったのは、契沖(1640~1701)、荷田春満(1669~1736)、賀茂真淵(1697~1769)、本居宣長(1730~1801)、平田篤胤(1776~1843)でした。このうち、宣長までの国学の精神は、皇国の古道を究めることでした。江戸時代後期の儒学者蒲生君平(1768~1813)は、同時代の林子平、高山彦九郎と共に、「寛政の三奇人」の一人に数えられています。下野国宇都宮の生まれで、幼い頃から学問で身を立てることを決意した君平は、15歳の時に儒学者鈴木石橋の麗澤塾に入り、楠木正成や新田義貞らの忠勤ぶりに感化され、勤王思想に傾斜しました。その後、水戸藩の勤王の志士藤田幽谷と出会い、その影響を大きく受けた君平は、寛政8年(1769)から12年(1800)にかけて、近畿地方や各地の古墳の調査を行いました。そして、江戸駒込に塾を構えて子弟を教えながら、享和元年(1801)に『山陵志』を完成させました(一説には君平の死後完成したともいわれる)。君平はその中で、前方後円墳という言葉を初めて用い、今日まで用いられる古墳の形状を表した言葉となりました。また、君平の調査した史料は、考古史料としての評価も高く、その後の研究に大きな影響を与えました。古きを学ぶという国学の精神が、蒲生君平の行動や、各地における地方史の探求に影響を与えたものと考えられます。