松島王墓を考える

松島王墓を考える - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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頼勝親王の伝承とは何か?敏達天皇の皇子には、押坂彦人大兄皇子、竹田皇子、葛城王、尾張皇子、難波皇子、春日皇子等がいます。このうち押坂彦人大兄皇子は、広姫との間に生まれた第一皇子であり、蘇我氏の血を引かない有力な皇子でしたが、蘇我氏の台頭後は一切登場しなくなりました(一説には蘇我氏により暗殺されたとの説もあります)。竹田皇子は、母が後の推古天皇ということもあり、早くから皇位継承の有力候補とされていましたが、敏達天皇崩御時は幼少であったため見送られ、崇峻天皇即位後にはその名が登場しなくなります。恐らく薨去したものと考えられています。葛城王は、『古事記』には登場しますが、『日本書記』には登場せず、詳細はわかりません。また、尾張皇子等についても詳細は不明です。このように、敏達天皇の皇子には詳細が不明な人物が多く、頼勝親王に至っては、史料にその名前すら無いため、なぜ松島王墓が頼勝親王の墓だという伝承が伝わったのかは全くわかっていません。では、このことをどう考えたらよいのでしょうか。敏達天皇の最初の皇后であった広姫の墓は、滋賀県長浜市米原にあるとされています。また、愛知県瀬戸市には、敏達天皇の皇子の一人、尾張皇子の墓と伝えられる場所(自然石)があります。尾張氏は、後の壬申の乱の際には、大海人皇子(後の天武天皇)を支援した有力な氏族で、一説によれば、そのおかげで大海人皇子は勝利したともいわれています。当時の畿内政権(継体王朝)が、東国への影響力を強めるための手段の一つとして、有力氏族と姻戚関係を結ぶ方法が考えられます。尾張皇子の伝承や、頼勝親王の伝承は、それ自体が事実であるかどうかは別として、当時の畿内政権が、信濃等の東国への影響力を強めていったことを反映しているとは考えられないでしょうか。明音寺に残る古文書松島の明音寺には、『信濃奇區一覧』(『信濃奇勝録』)や『伊那志略』の記述よりも古い、享保3年(1718)に記されたと思われる文書の写しが伝えられています。この文書によると、享保3年(1718)3月27日に、王墓に秋葉権現の社が建てられ、王墓(王子?)大権現も建てられました。そして、王墓については、敏達天皇の第三皇子で松島に流された頼勝親王の廟所で、頼勝親王は推古天皇10年壬戌の年(602年)9月18日に崩御したと記されています。その根拠や、文書の真偽のほどはわかりませんが、仮に本当だとした場合、生前から古墳を造営していたものと考えて、松島王墓は6世紀後半(末)~7世紀初頭頃に造営されたことになります。明音寺文書(写)龍宮塚の椀貸伝説『信濃奇區一覧』(『信濃奇勝録』)には、松島王墓の傍らに龍宮塚があり、地元の人がいうには、その穴は龍宮に通じていて、書を送って器物を借りる時はその穴から出た。その後、借りたまま返さない人がいてからは借りることが出来なくなった、という伝説が記されています。この伝説は、いわゆる椀貸伝説といわれるもので、同様の伝説は全国に数多く残っています。この伝説を、古墳に当てはめて考察した場合、古墳の石室等に副葬品として置かれていた碗や皿(須恵器や土師器)を、後世の人たちが人寄りの時等に借用した可能性が考えられます。また、後世の人たちが簡単に出し入れ出来たとすると、龍宮塚は横穴式石室の古墳だったのでしょうか?いずれにしても詳細は不明ですが、こうした伝説から、後世の里人たちが、古墳を日常的に目にし、何らかの形で関わっていたことがうかがえます。


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