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松島王墓と秋葉権現現在、松島王墓の南側くびれ部南東付近には、大正2年に建てられた深沢鎮火大神の石碑が建っています。享保3年(1718)、明音寺八世格門の代、格門の父格翁は秋葉信仰が厚く、秋葉権現を勧請して、松島王墓に社を建てて祀りました。そして、文化11年(1814)頃に再営(建て直し)された秋葉権現は、明治2年(1869)の神仏混淆廃止により、仏は秋葉寺へ、神は深沢鎮火社へ分けられました。このうち深沢鎮火社は、明治41年(1908)に松島神社に合祀されましたが、大正2年(1913)には、跡地に石碑が建立されました。明治2年以降に深沢鎮火社が置かれた場所が、江戸時代に秋葉権現が置かれた場所と同じかどうかは確認出来ませんが、測量図からは、南側の造り出し付近の土を削り、その南東方向に土を盛って、社が造られたのではないかと思われます。そして、それを証明するかのように、現在の石碑付近及びその南東付近では、今でも埴輪片を拾うことができます。深沢鎮火大神の石碑なお、松島王墓で見られる、古墳のくびれ部の南側に社を祀るという構図は、青塚古墳等、他の古墳でも見ることができます。敏達天皇について松島王墓の被葬者と伝えられる頼勝親王については、その存在を確認出来る史料はありません。では、その父とされる敏達天皇とは、一体どんな人物だったのでしょうか。敏達天皇は、第29代欽明天皇の子で、異母兄弟には、大兄皇子(後の用明天皇=聖徳太子の父)や豊御食炊屋姫命(後の推古天皇)、穴穂部間人皇女(用明天皇の皇后=聖徳太子の母)等がいます。571年に欽明天皇が崩御したため、次の天皇に即位しました。敏達天皇の最初の皇后は広姫という人で、広姫が崩御した後は、576年に異母妹の豊御食炊屋姫命(後の推古天皇)を皇后としました。敏達朝の14年間は、552年に伝わったとされる仏教をめぐって、崇仏派の蘇我氏と、廃仏派の物部氏・中臣氏等が争っていた時代でした。敏達天皇は、蘇我氏との姻戚関係が無かったこともあり、廃仏派の物部守屋の進言を容れて仏教禁止令を出し、仏像と仏殿を燃やしたと伝えられています。しかし、直後に天然痘に罹って崩御したため、その後は崇仏派の蘇我氏が有力になっていきました。和風論号は訳語田渟中倉太珠敷尊(古事記では沼名倉太珠敷命)で、別名他田天皇とも呼ばれます。死後は、母・石姫皇后の墓である磯長の陵(河内磯長中尾陵=太子西山古墳、現大阪府南河内郡太子町)に葬られたと伝えられています(『日本書紀』)。関係略図(数字は天皇の代数)