松島王墓を考える

松島王墓を考える - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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Ⅱ伝承から考える古墳の名称から何がわかるか?古墳の名称の中には、それぞれの土地で古くから日常的に使われていた名称を用いている場合もあり、古墳を考える上での参考になります。古墳の名称に使われることが多い言葉には、次のようなものがあります。①②③④古墳の形を説明したもの…丸山(円墳)、桝山(方墳)、茶臼山・銚子塚(前方後円墳)等古墳の規模を言い表したもの…大塚等自然の丘でないことを表現したもの…造山、作山、築山等古墳の被葬者の偉大さを表現したもの…天王塚、将軍塚等※この場合、墳丘の大きさから、近世~明治頃の人が命名したものが多いと思われる。松島王墓の場合、松島という地名+(プラス)王墓となっています。王墓という名称は、④の天王塚・将軍塚等と同様に、墳丘の大きさから、被葬者の偉大さを想像して付けられたものと思われます。文献に記された松島王墓『信濃奇區一覧』(『信濃奇勝録』)は、江戸時代末期の天保5年(1834)に、佐久郡臼田の神官であった井出道貞が、各地の名勝等を見聞した後に記した地誌で、対象範囲は信濃国全域に及んでいます。道貞がこうした地誌を記した背景には、旧跡や古文書に関心があった父の影響や、国学者に和歌や書を学んだことが影響していると思われます。この中には、松島王墓に関する記述が、次のように記されています。松島王墳松島の里の北に王墓と称して大なる塚有り。上には松並び立てり。土人伝へて敏達天皇の皇子頼勝親王の墓なりといへり。然れども日本紀、皇胤紹運録等にも頼勝親王と云うは見へず。中村元恒の伊那志略に曰ふ。近年秋葉権現を配し祀る。嘗て文化十年の頃、神祠を造営すとて塚の回を穿り崩しけるに、瓦焼偶人を多く穿り出す。其の長さ一尺ばかり、皆官服の體なり。穿るもの恐れて元の如くに埋めたり。……(中略)……是も往古の土俑なる物か、されば尊貴の墓なる事を知るといへどもすべて慥なる伝えなし。これにより、当時から松島に大きい古墳があることが認識されており、松島王墓と呼ばれていたことがわかります。そして、地元の人の言い伝えでは、敏達天皇の皇子である頼勝親王の墓と伝えられているものの、史料にその人物を見つけることはできないとしています。同様のことは、文化11年(1814)頃に、高遠藩の儒者であった中村元恒が著した『伊那志略』にも記されています。そして、これらの文献には、享保年中に王墓に秋葉権現を祀り、近年(文化11年/1814頃)祠を建て直すために周りを掘り崩したところ、官服を着た、長さ一尺(約30センチ)ほどの焼き物の人形が出たので、恐れて元のように埋めた。また、その焼き物については、陵墓に供えるための土俑(埴輪)で、尊貴な人の墓だと思われると記されています。松島区の絵図より抜粋(明治25年頃)明治25年頃に描かれた松島区の絵図から、当時の松島王墓とその周辺の様子がわかります。南東には深沢鎮火社、周辺には多くの小山が描かれています。これらの小山は松島王墓と表現方法が似ているため、これらを古墳と考えると、王墓周辺には18基程の古墳があり、古墳群を形成していた可能性が考えられます。


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