松島王墓を考える

松島王墓を考える - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


>> P.2

大きさが似ている古墳松島王墓は、古墳時代後期(5世紀末~6世紀代)に造営されたと考えられています。長野県内では、古墳時代前期~中期にかけては、善光寺平を中心とした地域において、前方後円墳等の大型古墳が数多く造られました。しかし、古墳時代後期には、善光寺平等では前方後円墳が造られなくなり、代わって南信地方において、前方後円墳が数多く造られるようになりました。その内訳は、上伊那地方に1基(松島王墓)、諏訪地方に1基(青塚古墳)で、残りは全て飯田・下伊那地方に存在しています(25基)。前方後円墳成編年集西暦7期8期9期10期5世紀中頃~5世紀後半5世紀後半~6世紀初頭6世紀初頭~6世紀後半6世紀後半~7世紀初頭古墳時期対応表南信地方の古墳時代後期の前方後円墳は、全長40~75mほどの中型の古墳です。このうち松島王墓は、全長約58mを測りますが、これとほぼ同規模の前方後円墳(仮に松島王墓の全長+-5mとする)を挙げると、下諏訪町の青塚古墳(約59m/9~10期)、飯田・下伊那地方には御射山獅子塚古墳(58.0m/9期)、丸山古墳(約60m/7~8期)、権現堂1号古墳(60.9m/8期)、代田獅子塚古墳(約61m/8期又は9期)、久保田1号古墳(約61m/9期)、金山二子塚古墳(約63m/9期)、水佐代獅子塚古墳(54.2m/9期)等があります。造り出しについて松島王墓の大きな特徴は、前方部と後円部の間のくびれ部に造り出しが認められることです。特に北側のくびれ部では、一部に削られている箇所はあるものの、現在でも明確な造り出しを認めることができます。南側のくびれ部には、北側に残るような明確な造り出しは認められませんが、測量図をみると、かつて造り出しがあったと思われるような形状を認めることができます。古墳の造り出しは、有名な大仙古墳(仁徳天皇陵)等にあることで知られていますが、その用途については、埴輪などを並べ、祭祀を行った空間ではないかと考えられています。南信地方の他の前方後円墳では、明確に造り出しが認められる古墳はありませんが、飯田・下伊那地方では、溝口の塚古墳(8期)、塚原二子塚古墳(7~8期)等、<びれ部で埴輪配列が確認された古墳も見つかっています。また、権現堂1号古墳(8期)の北西側のくびれ部には、造り出しではないかと思えるような形状が認められ、松島王墓以外の前方後円墳にもあった可能性が考えられます。周溝のある古墳測量図を見ると、松島王墓の北側には、周溝と思われる窪みの痕跡が認められます。また、古い測量図を見ると、西側にも周溝と思われる窪みの痕跡が認められます。現在、古墳の東側と南側では、周溝の痕跡を認めることは出来ませんが、『松島神社』(昭和52年刊行)には、南側の濠にあたる辺りに道が出来てから、土砂が洗い流されて地形が全く変わってしまったと記述されており、古墳の外側を全周する周溝があったと考えられています。飯田・下伊那地方では、溝口の塚古墳(8期)、高岡1号古墳(8~9期)、上溝天神塚古墳(9期)、水佐代獅子塚古墳(9期)、塚原二子塚古墳(7~8期)、御猿堂古墳(9期)、久保田1号古墳(9期)、大塚古墳(7~8期)、兼清塚古墳(7期)等で、周溝又は周溝の痕跡が認められています。


<< | < | > | >>