庶民が見た幕末 ~箕輪郷騒動記~

箕輪町の文化財 - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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年度出来事元治1(1864)・水戸浪士隊は上州下仁田で高崎藩と戦い、11月17日には内山峠を越えて信濃に入る。11月20日には和田峠で高島・松本両藩軍と戦い、その夜は下諏訪宿に宿泊。松島宿では3人を下諏訪宿まで偵察に出し、情報収集を行う。21日、浪士隊は岡谷で朝食をとり、平出宿(辰野町)で休憩し、そこから隊を二つに分けて進み、松島追分で合流。松島宿に迫る。・浪士たちの怒りを買って宿場を焼き払われてはならないと考えた松島宿の人々は、浪士隊を宿泊させることを決断。その晩、水戸浪士隊は松島・木下に分かれて止宿。・22日朝、浪士隊は松島を出発。北殿宿(南箕輪村)で休憩し、伊那部宿(伊那市)で昼食をとり、赤須・上穂宿(駒ケ根市)で宿泊し、さらに西へ向かう。この時、一部の村人は人足として途中まで浪士隊に同行。その後、松島村の文七は敦賀まで同行。・11月24日、田沼意尊率いる幕府の追討軍が松島宿を通過。27日と29日には大砲方が通過。・水戸浪士隊は揖斐宿に到り、そこで京都の一橋慶喜が自分たちの追討を申し出て許可されたことを知る。浪士隊は、進路を変更し越前に向うため、12月に雪深い蝿帽子峠を越えるも疲弊し、さらに慶喜の追打軍進軍を知り加賀藩に投降。その後幕府追討軍がやってきて、浪士をにしん蔵に幽閉。慶応1(1865)・3月1日から20日にかけて、武田耕雲斎をはじめ、捕らえられた水戸浪士828人のうち352人が斬首され、その他多くが島流しなどの処分を受ける。この時、松島村文七は、武士ではないかと疑われるも、何とか釈明し、その後松島村に戻る。・5月に洪水があり、上伊那地方は被害を受ける。慶応2(1866)・7月、徳川家茂が死去。12月、徳川慶喜が第15代将軍となる。慶応3(1867)・土佐藩では、幕府に大政奉還をさせようとする機運が高まり、10月に幕府に大政奉還を建白。徳川慶喜はこれを受け入れ、10月14日に大政を奉還。しかし、薩長の兵は討幕のため、続々と京都に集結。・この年の秋、村々に神仏の札降り、「ヤッチョロ」騒ぎはじまる。・12月9日、王政復古の大号令が発せられ、天皇を中心とした新政府が樹立。新政府は徳川慶喜に対し、官位辞退と領地返上を命じる。慶応4(1868)・1月、鳥羽伏見の戦いが起こり、旧幕府軍と新政府軍との間に戊辰戦争が始まる。鳥羽伏見の戦いに勝利した新政府軍は、江戸へ引き揚げた徳川慶喜を追って、東海・東山・北陸の三路に分かれて征討軍を起こす。このうち、東山道軍の鎮撫総督は岩倉具定。・1月22日、征討軍の鎮撫総督が「これまで苛政に苦しんできた者は遠慮なく訴えるベし」という内容の御布告を発する。これを受け、太田領の村々では、太田領離脱を訴え出るべきか、否か相談する。・2月26日、南殿村の領民2名が岩倉総督へ訴え出るため村を出発。木曽谷へ向かい、岩倉総督の後を追う・2月28日、東山道軍の岩倉総督が上松宿に止宿。・2月30日、東山道軍の岩倉総督が本山宿に止宿。同日未明、太田領離脱の嘆願を決めた下寺村・福与村・松島村の領民が各村を出発。翌3月1日には、久保村・塩ノ井村・南小河内村の領民も合流。・3月1日、東山道軍の岩倉総督が下諏訪宿へ入る。・3月2日、先に村々を出発していた領民の代表が、下諏訪宿にいた岩倉総督に太田領離脱の嘆願書を提出。次いで同様の嘆願書を本山宿の尾張藩仮取締所へも提出。・3月13日、西郷隆盛と勝海舟の話し合いにより、江戸城が無血開城と決まる(※4月に到り、新政府軍が江戸城を接収)。・3月14日、新政府が五箇条の御誓文を発布。この日、東山道軍の支隊である板垣退助隊が新宿に到着。・3月16日、松島村と南殿村の年寄の連名で、塩尻の尾張藩取締所に書付を提出し、再度太田領から天領に戻してもらえるよう嘆願。・その後、尾張藩飯島御役所を通じて、箕輪における太田領は安堵(天領移行成らず)との連絡有り。3月30日には、各村から年寄2名ずつが飯島御役所に出頭し、4月5日には、太田氏に恭順を示す文書への署名・押印を迫られる。


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