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関係年表年度出来事17C後半〜18C・欧米諸国が市民革命を成し遂げ、近代市民社会を生み出す。元禄12(1699)〜宝暦6(1756)・箕輪領七ヶ村約5,000石が幕府旗本太田領となる(第1期)。領主は太田資良、資賢、資倍の三代。資良は松島西垣外に陣屋を設けて家臣を置く。資賢は松島追分に道標を建立。18C後半・イギリスで産業革命が始まる。文化3(1806)〜4(1807)・箕輪領七ヶ村約5,000石が再び幕府旗本太田領となる(第2期)。領主は太田資寧。18C末〜19C初め・欧米列強の日本進出が始まる。文政8(1825)・幕府が異国船打払令を出す。文政12(1829)・徳川斉昭が第9代水戸藩主に就任。天保13(1842)・阿片戦争で清国がイギリスに敗北すると、幕府は異国船打払令を廃止して、外国船に燃料と水を供給することとする(天保の薪水令)。弘化1(1844)・老中水野忠邦が失脚すると、徳川斉昭も謹慎となり、藩主を息子の慶篤に譲る。嘉永1(1848)・アメリカがカリフォルニアを獲得。その後ゴールドラッシュが起こる。嘉永6(1853)・6月、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが浦賀に来航し、アメリカ大統領の親書を渡して開国を求める。・徳川斉昭が幕府の海防参与に任命され、幕府に対して意見10ヶ条を提出するも、翌年辞任。安政1(1854)・1月、ペリーが再び来航し、強硬な態度で開国を迫る。老中阿部正弘は3月に日米和親条約を結び、日本は開国。その後、イギリス・ロシア・オランダとも同様の条約を結ぶ。安政5(1858)・6月、幕府が孝明天皇の勅許を得ないまま、アメリカと日米修好通商条約を結ぶ。・8月、朝廷が幕府を通さずに水戸藩に勅諚を与え、攘夷実現のために諸藩と強調して尽力するよう命ず。・この年、将軍継嗣問題が発生。水戸藩主徳川斉昭や薩摩藩主島津斉彬らは一橋慶喜を、彦根藩主井伊直弼らは徳川慶福を推す。4月に井伊直弼が大老に就任し、6月に徳川慶福を14代将軍家茂として、反対した一橋派の運動を厳しく取り締まる(安政の大獄など)。万延1(1860)・3月、井伊直弼が水戸浪士に暗殺される(桜田門外の変)。文久1(1861)・老中安藤信正が朝廷と幕府の妥協・融和を図る公武合体策をとり、孝明天皇の妹和宮親子内親王を14代将軍徳川家茂の夫人に迎え入れることに成功する(10月、和宮下向)。しかし、村々は助郷に苦しむ。文久2(1862)・1月、老中安藤信正が尊王攘夷派の浪士の反感を買い、坂下門外で襲われ(坂下門外の変)、後に失脚。・この年、旧太田領の七ヶ村が、三たび太田領となる。領主は太田栄之丞(資忠)。文久3(1863)・尊王攘夷運動の高まりに対し、幕府や薩摩藩、会津藩などが朝廷内の公武合体派と提携し、8月18日に政変を起こし、長州藩の勢力を朝廷から一掃。元治1(1864)・池田屋事件(※尊王攘夷派の志士たちが新撰組に襲撃された事件)が起こると、7月に長州藩が兵を上京させるも、会津・桑名・薩摩藩の兵に迎え撃たれ大敗(禁門の変)。尊王攘夷運動は大きな痛手を受け、次第に討幕の機運が高まる。・3月には、水戸藩士藤田小四郎、田丸稲之衛門らが水戸天狗党を名乗り筑波山で挙兵。これに対し水戸藩内では諸生派が実権を把握。幕府から藩内抗争の収束を命じられた藩主徳川慶篤は、支藩藩主松平頼徳に下向を命じるも、これに天狗党が加わったため、松平頼徳軍を攻撃。頼徳は切腹するも、天狗党らは北へ逃れ、武田耕雲斎を首領として、京都にいた一橋慶喜に尊王攘夷の志を訴えるため、11月1日に約1000人の浪士が西上を開始。幕府は沿道の諸藩に追討命令を出し、田沼意尊が追討軍として出発。