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・太田氏のその後明治2年の太田領の伊那県管轄下への移行後、旧領主である太田栄之丞(資忠/忠雄)と彦十郎(資智)は箕輪の地に居住しました。明治16年(1883)2月22日に栄之丞が35歳で亡くなると、彦十郎ほ同年3月に、先祖代々の位牌や具足や烏帽子などの家宝を明音寺に預けました。そして、彦十郎も明治17年(1884)9月7日に39歳で亡くなりました。栄之丞・彦十郎それぞれの葬送の配役を記した古文書には、大勢の人々が葬列をなしたことが記されており、過去には対立があったものの、判決に際しての寛大な措置もあってか、旧領主の死去に際しては、多くの人々がその死を悼んだものと思われます。太田栄之丞(資忠)・彥十郎(資智)兄弟の墓は、明音寺の裏山にある墓地にあります。太田栄之丞(資忠/上)及び彦十郎(資智/下)の御葬送例式(明音寺所蔵)太田資智公(左)と資忠公(右)の位牌(明音寺所蔵)