庶民が見た幕末 ~箕輪郷騒動記~

箕輪町の文化財 - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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・判決と太田氏の対応離脱騒動に関係した領民の処分者は、分かっている範囲では、入牢者3名、宿預け(※一定期間の謹慎・蟄居)27名でした。このうち、入牢は松島村1名、南殿村2名。宿預けは、下寺村3名、南小河内村3名、福与村8名、南殿村2名、久保村1名、松島北割7名、同町方3名でした。明治2年(1869)5月には、松島村の理助等4人が伊那県庁の白州(※法廷)に呼び出され、言い渡し(※判決)を受けました。その結果、身柄は太田家に下げ渡されたものの、格別の思し召しで手錠は許され、地頭役人が付き添って松島に到着しました。また、その他の御咎めの者は、各々村へ帰って謹慎するよう言い渡されました。そして太田家では、これまでの入牢・宿預け等で刑はすでに終えたとして、新たな刑を科さずに一件落着させました。飯島陣屋の白州・離脱騒動の意味明治2年(1869)6月24日、太田領の村々は正式に伊那県の管轄下に入りました。その喜びは大変なものであったと思われますが、先の太田氏の寛大な処置は、もしかしたら近々伊那県管轄下に入ることがわかっていたからかもしれません。また、結果的には、維新の激動により、離脱騒動がなくても伊那県管轄下になったのかもしれません。しかし、封建時代において領民が領主層を相手に争うことは命懸けの行動であり、いくら全国的な激動の時代であったとはいえ、まだどちらに転ぶかわからない段階で多くの領民が命がけの嘆願行動を起こしたことは、まさに当地方における一大事件であり、新時代の到来を告げる出来事でした。・長野県誕生新政府軍と旧幕府軍の戊辰戦争は、明治2年5月に旧幕府軍が降伏して終結しました。また、明治政府ほ、強力な中央集権体制を樹立するため、明治2年に版籍奉還(※諸藩主の領地・領民の天皇への返上)を実施し、さらに明治4年(1871)7月には廃藩置県(※これにより藩廃止)を実施しました。また、同年11月には、3府302県に分かれていた全国の府県が大統合され、3府72県となりましたが、この時、伊那県を含む中南信地域と飛騨地方が統合され、筑摩県が誕生しました。その後、明治9年(1876)8月に、府県の統合を進める政府によって筑摩県が廃止され、飛騨を除いて長野県と合併し、信濃全域を領域とする現在の長野県が誕生しました。


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