庶民が見た幕末 ~箕輪郷騒動記~

箕輪町の文化財 - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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3騒動の結末・戊辰戦争の行方新政府の東山道軍は下諏訪から二手に分かれ、本隊の岩倉隊は中山道を通って江戸へ向かい、参謀の板垣退助隊は甲州街道を通って江戸へ向かいました。そして、旧幕府軍の拠点の一つである甲府城を開城し、3月14日に新宿に着きました。その前日、江戸城では西郷隆盛と勝海舟の話し合いにより無血開城が決まり、新政府軍は戦わずして江戸城を接収することができました。しかし、会津藩等の東北諸藩は、なおも新政府軍に対抗する姿勢を示しました。こうした中、信濃諸藩は、信濃に入って来た新政府軍に対して即座に恭順の意を示すことができなかったため、北越に向かう新政府軍に軍資金を提供したり、新政府軍の一員として出兵することを求められました。その後、新政府軍は7月末に長岡藩を下し、9月22日には会津藩も降伏しました。・伊那県の設置慶応4年(1868)閏4月、新政府は府藩県三治制(※旧幕府直轄領のうち城代・京都所司代・奉行の支配地を府、それ以外を県として、藩は今までどおり大名に治めさせる制度)を定め、これに基づいて8月2日には新たに伊那県が設置され、旧飯島陣屋に県庁が置かれました。そして、尾張藩の旧幕府領取締りの任を解き、知事が着任するまでの間だけ管理を続けさせることにしました。その後、9月に大野図南太郎判事が準備のために飯島に入り、10月には北小路俊昌知事が到着し、旧飯島陣屋管下の引き渡しを受けたため、尾張藩の役人は引き上げました。また、尾張藩塩尻取締所はすぐには廃止されず、伊那県の出先機関的な役割を果たしましたが、翌明治2年4月に伊那県へ引き渡されました。・決着と首謀者の処分天領復帰を望み、最後まで嘆願を続けた領民たちでしたが、9月に至り、権威を盾にして自分勝手な振舞いをした地方役人は廃止するが、離脱の請願は取り下げるということで決着しました。これに先立つ8月2日には伊那県が設置され、太田領以外の旧幕府領の村々はその管轄下に入りましたが、太田氏支配下の七ヶ村は尾張藩取締所管轄下に残されました。9月8日には年号が改元され、慶応4年は明治元年となりましたが、同年暮れには、心配していた太田氏側の取り調べが行われました。そして、首謀者とみなされた松島村の理助と南殿村の2名が牢屋入りを命ぜられ、翌年3月には伊那県に引渡されました。この時、理助の友人はその身を案じて手紙を送り、また松島北割の役員一同は、伊那県に対して再三赦免を願い出たそうです。理助赦免願(個人所蔵)


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