>> P.17
・思わぬ結果しかし、事態は領民の願い通りにはなりませんでした。箕輪における太田氏の所領は安堵され、太田領の村々の天領への編入は叶いませんでした。この知らせは、尾張藩飯島御役所から在地出身の代官(※地元者の中から任命された者)に伝えられ、さらに村々へ知らされました。そして、3月30日には各村から年寄2名が裃着用で陣屋に出頭し、4月5日には太田氏に恭順を示す文書へ村中全員が署名・押印して差し出すことを迫られました。こうした事態に村々は大騒ぎとなり、4月8日に飯島御役所へ提出した書付では、このような結果では村々の騒乱は収まらず、もはや地元民でも今後どのような混乱になるかわからないため、先に出された文書(※箕輪領における太田氏の所領安堵を認めたもの)を廃止するよう求めています。コラム幕末に多発した騒動当地方で起こった太田領離脱騒動のような騒動は、幕末期に多く見られた領主財政の窮乏化を原因とする騒動の一つでした。江戸時代における貨幣経済の普及は、領主層や武士層の支出を増大させました。そのため、貢租(年貢)以外に収入の方法を持たない領主層は、財政不足を補うために年貢を増やしたりしました。そして、それが領民の抵抗を受けると、今度はやり方を変え、次年度分の年貢を前納させたり、御用金と称して臨時の負担を課すなどして、領民に種々の負担を強制しました。また、領民の反抗を抑えるために、領内を分断させる策を講じたりもしました。こうした領主層の常套手段に対し、ついに耐え切れず騒動が発生することは全国に見られました。・諦めぬ領民たち諦めない領民たちは、4月10日に以下の様な要望を記した書付を飯島御役所へ提出しました。一今後の年貢は隣の天領の村々と同額で、十月から三回に分けて納入したいこと。一年貢のこと、水害の検見のこと等、行政に関することは飯島御役所の指示に従いたいこと。一訴訟(裁判)に関することも直接飯島御役所へお願いしたいこと。一たくさんの税金のうち、少なくとも三つは廃止してもらいたいこと。一太田家の家族の引っ越し経費や屋敷の建造費等は負担しないこと。そして、これらの条件を認めてもらえるのであれば、これまで通り太田氏の支配地であっても静かに従い、騒ぎは起こさず、家業に精を出すので、何卒お願いしたいというものでした。これは、名目上は太田氏の支配地であっても、実質は天領扱いにしてほしいという内容のものでした。復元された飯島陣屋