庶民が見た幕末 ~箕輪郷騒動記~

箕輪町の文化財 - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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コラム尾張藩取締所について新政府が東山道軍等の征討軍を派遣した目的の一つは、幕府の領地を没収し、これを新政府の領地とすることでした。そのため、東山道軍が通過する直前の慶応4年(1868)2月13日に、寛保3年(1743)以来松本藩預かりとなっていた旧幕府直轄領(※筑摩郡及び伊那郡の一部約五万四千石)を尾張藩預かりとする支配替えを行いました。尾張藩は徳川御三家の筆頭ですが、この頃には新政権を支える立場をとっていました。尾張藩は、2月末に本山宿の長久寺に仮の取締所を置き、次いで塩尻宿本陣に移し、3月初旬には塩尻の永福寺に取締所を設置しました(※所長は尾張藩士臼井逸蔵)。これと前後して信濃国内の他の旧幕府領も没収され、尾張藩の管轄となりました。そして、飯島をはじめとする代官支配地の各陣屋を、新たに取締役所に改編しました。現在の永福寺(塩尻市)明治4年11月の掲示(上古田の制札)・新政府の方針慶応4年(1868)1月、新政府は諸外国に対し、王政復古によって天皇を主権者とする新政権が成立したことを通告して承認を得、国内に向かっては開国和親の布告を行いました。また、征討軍が江戸へ向かいつつあった3月14日には、五箇条の御誓文を発して新しい政治の方針を天下に表明しました。これは、政局の動揺をおさえ、公家・諸侯・諸藩士を新政府のもとに結集させるためのもので、公平な議論の尊重と開国の方針を国内に示したものでした。しかし、翌日に太政官が掲げた五榜の掲示は、儒教的道徳をとき、徒党・強訴を禁じ、キリスト教を邪教として禁ずるなど、幕府同様の古い考え方を示すものでした。また、同年に出された神仏分離令をきっかけとして、廃仏毀釈運動(※仏教排斥運動)が全国に広がり、仏教は大打撃を受けました。・領民の結束3月2日に岩倉総督へ、次いで本山宿にあった尾張藩仮取締所へ書付(※嘆願書)を提出した太田領の領民は、3月16日には松島村と南殿村の年寄の連名で、当時塩尻にあった尾張藩取締所に書付を提出し、天下御一新の世となったからには天領に戻してもらえるよう重ねて嘆願しています。しかし、征討軍の目的が徳川氏とその支持勢力の壊滅と幕府領を朝廷領に編入することであったため、その実現は大変困難でした。また、太田氏側も何とか領地を守れるよう、家臣を送り込んで対応したため、これに危機感を持った領民たちは、一層結束を強くする必要がありました。松島村では、万が一代表者が処罰されるような事態になったら、村中を挙げて同罪を受けること等を取り決め、結束を高めました。


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