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2騒動の経過・新政府軍来たる新政府の東山道軍ほ、薩摩・長州・土佐・彦根等の藩を中心に構成され、その数は約五千人でした。東山道軍は三隊に分かれ、2月末から3月初め頃に、木曽から下諏訪へ到る中山道を通過しました。岩倉総督は、2月28日に上松宿、30日に本山宿に宿泊し、翌3月1日に下諏訪宿へ入りました。通行にあたって新政府軍は、街道筋の大名に対して、軍資金の献上や兵糧の拠出、荷物の運送や警備などを命じました。こうした中、南殿村の領民2名は、2月26日に密かに村を出て、木曽路入りした岩倉総督一行の後を追って書付(文書)を出願し、さらに、当時本山宿にあった尾張藩取締所の仮役所にも書付を出願したとされています。尾張藩取締所への出願は、この地域の新政の実施が、新政府を支える立場にあった尾張藩の手にゆだねられていたためです。・決死の嘆願この頃、南殿村を含む全ての村々で、この機会に岩倉総督へ嘆願に行くか否かの相談をしていました。当時、支配者に楣突くことは死を覚悟しなければならないことであったため、領民の間にも様々な立場・考えがあり、容易に決めることはできませんでした。また、こうした動きを察知した太田氏も、領民の新政府への嘆願を未然に防ぐための行動をとりました。このように様々な動きがある中、2月30日未明に下寺村・福与村・松島村の領民が各村を出発し、翌3月1日には、これに久保村・塩ノ井村・南小河内村の領民が合流して、2日に下諏訪宿に居た岩倉総督へ嘆願しました(※その後、本山宿の尾張藩取締所にも嘆願した)。その書付は、太田氏の苛政に苦しんでいる実情を述べ、天領(幕府直轄領)への支配替えを嘆願するものでした。岩倉総督への嘆願書(写)新政府の御布告(写)下諏訪宿本陣