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・幕末の太田氏領第3期の領主は太田栄之丞(資忠)で、彦十郎(資智)が補佐したといわれています(※明音寺所蔵の古文書等による/資智を栄之丞とする説もある)。栄之丞は、幕末には陣屋に家臣を置かず、その職務を松島町方の名主等に代行させていたようです。後に出された村人の嘆願書には、名主等が自分勝手な振舞いをしたため困窮に拍車がかかり、このままでは絶える家や離散する家が出てしまうと記されています。また、嘆願書には、太田時代は天領時代に比べて納税その他の負担が重く、それがいつも村人の不満の種になっていたところへ、第3期には本税以外にも何かと理由をつけては課税・納金させたため、村人は大変困窮したと記されています。・大政奉還と戊辰戦争禁門の変(1864)後、尊王攘夷運動は下火となり、代って武力による討幕の気運が高まりました。こうした中、土佐藩では先手を打って幕府に大政奉還させようとする機運が高まり、幕府に大政奉還を建白しました。徳川慶喜(一橋慶喜)はこれを受け入れ、慶応3年(1867)10月14日に朝廷に大政奉還を上奏し、朝廷は受理しました。しかし同日、討幕派の画策によって薩長両藩に討幕の勅命が下りました。これはすぐに取り消されましたが、薩長の兵は続々と京都に向かい始めました。こうした中、討幕派は岩倉具視などの急進派の公家と計画を練り、12月9日に王政復古の大号令が発せられ、天皇を中心とする新政府が樹立されました。そして、徳川慶喜に対しては官位辞退と領地返上を命じたため、慶応4年(1868)1月、憤激した旧幕府・会津・桑名藩の軍と、薩長を中心とする新政府軍との間に戊辰戦争が始まりました。・新時代の兆候鳥羽伏見の戦いに勝利した新政府軍は、江戸へ引き揚げた徳川慶喜を追って征討軍を起こしました。征討軍は京都で組織され、東海・東山・北陸の三道に分かれて進軍しました。この時、明治新政府によって任命された臨時の征討軍の長官を鎮撫総督といい、幕府軍を追討する役割と地方を鎮撫する役割を持っていました。このうち、東山道軍の鎮撫総督は岩倉具定(具視の子)で、弟の具経が副総督でした。慶応4年(1868)1月22日、総督府は「年来苛政に苦しんできた者は遠慮なく本陣に訴え出るべし」という主旨の布告を発しました。太田氏への不満が鬱積し、天領に戻してほしいという願望がくすぶっていた人々の心は、これによって大いに燃え上がったといわれています。これまでの不満が、新時代の兆候を契機として一気に弾けそうな状況でした。コラム分割支配された村々当時の松島村・南殿村・北殿村のように、一つの村が複数の支配者によって分割支配された村を相給の村といいます。江戸時代の農村は、領民が貢租(年貢)をきちんと納めている限り、広く自治が認められていたことが知られていますが、相給の村は、領主が直接村々を統治することができなかったため、いっそう自治的傾向が強かったようです。そのため、領主は支配している村々の有力者を登用して末端の事務を担当させたり、複数の村が近在にかたまっている村々から代官や割元名主を任命して、各村の名主を統括させたりしました。また、富裕な農民に財政係を命じることも多かったようです。こうした支配体制や、相給の村ゆえの自主性の強さが、後の騒動に影響した可能性も考えられます。