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年度出来事慶応4(1868)・4月8日、太田領の村々の領民が飯島御役所へ書付を提出し、太田氏の所領安堵を認めた先の文書を廃止するよう嘆願。・4月10日、太田領の村々の領民が要望を記した書付を飯島御役所に提出。その内容は、年貢支払額の減額・分割支払いのお願いや、今後の行政指示は飯島御役所に従いたいこと、負担を減らしてもらいたいこと等で、これらを認めてもらえれば太田領のままでよいというものであった。しかし、これも認められず。・閏4月、新政府が府藩県三治制(旧幕府直轄領のうち城代・京都所司代・奉行の支配地を府、それ以外を県として、藩は今まで通り大名に治めさせる)を制定。・7月末、新政府軍が北越戦争で長岡藩を下す。・8月2日、府藩県三治制に基づき、新たに伊那県が設置され、県庁が飯島陣屋に置かれる。箕輪郷を含む旧天領の村々は全て伊那県管轄下に入ったが、太田領の村々は尾張藩取締所管轄下に残される。明治1(1868)・9月8日、年号の改元が行われ、慶応4年は明治元年となる。・9月22日、会津藩が新政府軍に降伏。・10月、北小路敏昌伊那県知事が飯島に入る。これにより、飯島陣屋にいた尾張藩の役人は引き上げる。なお、尾張藩塩尻取締所はすぐには廃止されず、しばらくは伊那県の出先機関的な役割を果たす。.この年の暮、太田氏による離脱騒動首謀者の取調べが行われ、3名が牢屋入りを命ぜられる。明治2(1869)・1月、薩摩・長州・土佐・肥前の藩主がそろって版籍奉還(※諸藩主の領地・領民を天皇へ返上する)を申し出て、ついで諸藩もこれにならうことになった。・3月、牢屋入りとされた3名が、手錠縄付で伊那県へ引渡しとなる。・5月、旧幕府の海軍を率いて五稜郭にたてこもっていた榎本武揚が降伏し、戊辰戦争が終結。・5月、松島村理助等4名が飯島県庁の白州で言い渡しを受け、身柄が太田氏に引き渡される。また、その他の御咎めの者は、各々村へ戻って謹慎するよう言い渡される。・6月、明治新政府が版籍奉還を実施し、奉還を申し出ていない藩主にも奉還を命じる。ただし、旧来の藩主をあらためて知藩事に任じて、これまでどおり藩政にあたらせた。・6月24日、旧太田領の村々が正式に伊那県の管轄下に入り、人々の喜びはひとしおであったという。なお、これ以後、旧領主太田栄之丞(資忠)・彦十郎(資智)は箕輪の地に居住した。明治3(1870)・9月、平民に苗字を許可。明治4(1871)・7月、廃藩置県が行われ、これにより藩が廃止される。・11月、3府302県が3府72県に統合される。この時、伊那県を含む中南信地域と飛騨地方が統合され、新たに筑摩県が誕生。明治4(1871)・7月、廃藩置県が行われ、これにより藩が廃止される。・11月、3府302県が3府72県に統合される。この時、伊那県を含む中南信地域と飛騨地方が統合され、新たに筑摩県が誕生。明治9(1876)・8月、筑摩県が廃止され、飛騨を除いて長野県と合併し、新たな長野県が誕生。明治16(1883)・2月22日、太田栄之丞(資忠/忠雄)が死去。35歳。・3月、太田彦十郎(資智)が先祖代々の位牌や家宝を明音寺に預ける。明治17(1884)・9月7日、太田彦十郎(資智)が死去。39歳。