庶民が見た幕末 ~箕輪郷騒動記~

箕輪町の文化財 - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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第2章太田領離脱騒動1騒動への序章・近世箕輪領の変遷関ケ原の戦いの後、慶長6年(1601)2月に小笠原秀政が飯田に入り、箕輪領は飯田藩の飛び地となりました。小笠原氏は、はじめは田中城、後には木下に陣屋を置いて箕輪領約一万石を治めました。また、小笠原氏移封後に飯田藩主となった脇坂氏も、木下陣屋に代官加集氏を置いて箕輪領を治めました。脇坂氏移封後は、天領(幕府直轄領飯島陣屋付)、板倉氏領を経て、元禄12年(1699)に再び天領となりましたが、この時、箕輪領のうちの松島(北割の一部を除く)、福与、南小河内、下寺、久保(塩ノ井と沢尻含む)、北殿の一部、南殿の一部を併せた約五千石は、幕府の旗本である太田資良の領地となりました。これらの村は、途中別の支配を受ける期間を挟みながらも、幕末まで3期にわたって太田領となりました。コラム江戸時代の箕輪郷現在の箕輪町周辺の区域は、古代に蕗原庄と呼ばれた荘園の区域とほぼ等しいのではないかと考えられています。その後、いつから箕輪と呼ばれるようになったのかは不明ですが、諸史料から、遅くとも15世紀中頃(室町時代)には箕輪と呼ばれていたものと考えられます。以後、戦国時代、江戸時代を通して箕輪郷は存在しましたが、箕輪郷を構成していた村々は、天正19年(1591)の『信州伊奈青表紙之縄帳』によると、中坪、野口、下寺、福島、福与、三日町、長岡、小河内、大井手、八乙女、上古田、下古田、松島、木ノ下、窪村、殿村、田端、御子柴、沢尻、大屋、大泉、中城、与地、羽広、上戸、富田の26ヶ村で、石高は11,326石と記されています。現在の箕輪町だけでなく、南箕輪村や伊那市西箕輪、手良などを含む区域が箕輪郷でした。・旗本太田氏について旗本太田氏の先祖は、室町時代後期の武将太田道灌(資長)です。室町幕府の関東における統治機構(鎌倉府)の長官が鎌倉公方ですが、道灌は、鎌倉公方を補佐すべき関東管領上杉氏の一族である扇谷上杉家の筆頭重臣であった太田家に生まれました。この頃、鎌倉公方足利家と関東管領山内上杉家は激しく争っていましたが、道灌は関東管領方の扇谷上杉家を補佐して、28年間にわたる享徳の乱を戦い抜きました。そして、道灌の活躍によって扇谷上杉家の勢力は拡大しましたが、道灌の権力拡大に危惧を抱いた主君上杉定正により暗殺されました。その後太田家ほ、北条家、次いで徳川家の家臣となり、水戸藩士、三河西尾藩(のち掛川藩)、幕臣に分かれました。このうち三河西尾藩(のち掛川藩)の分家が旗本太田氏となりました。


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