庶民が見た幕末 ~箕輪郷騒動記~

箕輪町の文化財 - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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・浪士隊の末路その後、浪士隊は伊那街道を南下し、清内路から木曽へ抜けて、中山道を通って美濃(岐阜県)へ入り、そのまま京都を目指す予定でした。しかし、揖斐宿(岐阜県揖斐川町)まで来たところで、京都にいる一橋慶喜が朝廷に浪士追討を申し出て許可された事を知り、これを避けて越前(福井県)に向かうため、美濃と越前の国境の蠅帽子峠を越えました。すでに12月に入り雪深い難所であったため、浪士の中には凍死傷者も出て、越前の新保宿(福井県敦賀市)に着いた時には疲労困憊していました。さらに慶喜率いる追打軍がむかっていることを知ったため、隊長武田耕雲斎は投降を決め、加賀藩に投降しましたが、その後に浪士隊の身柄を預かった田沼意尊は、浪士達をにしん蔵で監禁した後、幹部以下352人を斬首しました。また、それ以外の浪士たちも流罪などの処分をうけ、水戸にいた幹部の家族も斬首、投獄されました。こうして浪士隊の西上劇は幕を閉じました。揖斐宿付近(岐阜県揖斐川町)国道157号から蝿帽子峠方面を望む(岐阜県本巣市)浪士が幽閉されたにしん蔵(福井県敦賀市)水戸浪士の墓(福井県敦賀市)・水戸浪士の松島宿止宿という出来事浪士隊の伊那街道通行ほ、泰平の世に慣れた伊那谷の人々を震撼させました。松島宿の人々は、直接的な領主が不在だったため、自ら和田峠まで偵察を出して状況を判断し、村を守るために止宿を決めました。混乱の中で自ら判断せざるを得ない厳しい状況に置かれながら、自分たちの決断で止宿させ、結果的に被害を出さなかったことは、評価すべき出来事だったと思われます。また、判断を迫られたのほ諸藩も同様で、高遠藩の野木要人の動きに関しては、無駄な戦いを避けた事を評価されている一方で、逃亡した事を民衆に嘲笑され、藩の権威を下げてしまいました。また、追討軍が付かず離れずで進軍している様子は滑稽に映ったようで、各地で日記や覚書等に記されています。浪士隊の通行は強烈な印象を残し、時代の移り変わりを伊那谷の民衆に感じさせた事件といえるのかもしれません。


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