庶民が見た幕末 ~箕輪郷騒動記~

箕輪町の文化財 - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


>> P.9

・松島北村の文七について『浪士一条聞書』(南箕輪大東文書)には、松島宿北村の百姓文七が、伊那部宿辺りまで人足として浪士隊に同行し、その後も浪士の安藤定吉に連れられ、「中坪庄助源義国」という名前をつけられて、越前敦賀までついていったことが記されています。文七のように人足として次の宿場まで同行し、そのまま浪士隊についていった者も多くいたようです。強制的に連れられていった者もいると思われますが、文七は刀を持ち、武士のように振る舞っていたようで、強制的ではなかったようです。先出の『浪士一条聞書』には、敦賀で浪士隊が投降した際、風貌が人足ではなかったため取り調べを受けたとあり、「松島村文七帰村届」(個人所蔵)には、なんとか赦免となったが、足が痛くてすぐには帰れなかった旨が記されています。松島村文七帰村届(個人所蔵)・松島宿を出発22日早朝、浪士隊は松島宿を出発しました。挙兵したときと同じように吹き流しや旗をかかげ、大砲を押し、陣太鼓をもって意気揚揚と行進する様子が『今様奇談』に記されています。前々日に下諏訪宿で惨たる思いをした浪士隊が、松島宿では警戒しながらも英気を養えたのかもしれません。この日、浪士隊は、北殿宿(南箕輪村)で小休止をとり、伊那部宿(伊那市)で昼食を食べ、赤須・上穂宿(駒ケ根市)で宿泊しました。『今様奇談』には、北殿宿通過の際、浪士に煙草入れを差し出している村人や、浪士の乗っている籠に糞をして殺されそうになったアヒルを機転をきかせて助けた村人の話など、民衆と浪士のやりとりが記載されています。浪士隊を恐れて逃げていた民衆たちの反応が、少し変化していたことがうかがえます。コラム亀山嘉治水戸藩小荷田奉行亀山勇右衛門嘉治は水戸浪士の幹部の一人で、平田門人の秀才と呼ばれた人物です。島崎藤村の『夜明け前』にも登場し、24歳ながら文雅の士で、歌を詠むのが好きでした。酒は飲まず、宿でも奥座敷から出てこなかったと伝えられています。そんな実直な青年は、元々歌を好んだ事もあり、世話になった宿や人に歌をおくり、各地で歌を残しています。立しげる木の下風の寒きかないなの浦山あられ降るらしあられなす矢玉のなかを越えくれとすゝめかねたる駒が山本どちらも嘉治が詠んだ歌であると伝えられています。水戸から遠く離れた伊那の地での寂しさと戦いを続けながら進軍する強い決意が感じられます。亀山嘉治の歌(大宗館文書)


<< | < | > | >>