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・浪士隊の様子と民衆の反応浪士隊は、夜中村の出入り口でかがり火を焚き、出入の者を取締まって旅人の通行を禁じ、交替で不寝番を立てて巡回し、厳重に取締まりました。また、松島南町の与兵衛宅に止宿した奇兵隊の原七郎太郎らは、足元の畳をあげさせ、わらじ履きのままで仮眠をして警戒していたと伝えられており、浪士隊が極めて警戒していた様子がうかがえます。しかし、宿や民衆に対して粗暴な振る舞いがあったという話はなく、むしろ軍律をよく守り、住民に対しても穏やかだったと伝えられており、浪士隊を村の人たちが好意的にとらえていたことがうかがえます。また、世話になったお礼として槍や陣笠などを家々においていきました。これらは、合戦で敵軍から奪い取ったものと思われます。隊長の武田耕雲斎は、箕輪南宮神社(木下)に刀を奉納しています。武田耕雲斎が奉納した刀(箕輪南宮神社所蔵)水戸浪士が置いていった陣笠と槍(個人所蔵)・民衆の負担松島宿の人々は、浪士隊の止宿に当たって炊き出しをしたり、堅木や松の木、炭、わらじ、酒肴など様々な物品を用意したり、次の宿までの荷物運びや籠持ちなどの人足を200人以上出したりしました。また、『今様奇談』(南箕輪村南殿)には、「村々で交易シタ者、又ハ金持ヲ呼出シ、用金ヲ取ル者アリ。金百五十両沢村酒屋儀右衛門金六十両藤七同村、金六十両勝右衛門、浪士へ献金ナリ。木下村磯吉金七十五両、金七十五両同村土手長十、壺屋万七二人デ献金」とあり、村の富豪者から軍用金を調達していたことがわかります。木下村の報告書によると、五千両ずつ献金を要求された木下村の国助(磯吉?)・長十郎・万七は、「…即時に松島村役人相頼み種々歎願仕り…」とあり、値下げ交渉をしたことが記されています。『今様奇談』(写)〝水戸浪士北殿宿通過の図″(南箕輪村教育委員会所蔵)