庶民が見た幕末 ~箕輪郷騒動記~

箕輪町の文化財 - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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2水戸浪士の松島宿止宿・水戸浪士隊迫る!浪士隊の不穏な動きは、早くから民衆に伝えられ、西上する浪士隊の接近という危機的状況に置かれた松島宿では、年寄の庄右衛門ら3人を下諏訪まで偵察に出して情報収集にあたり、対応策を検討しました。飯沢勘六(辰野町)は、浪士軍の平出宿通行時の様子を『懐中扣』の中で、「水戸浪士千人余、旗を立、平出を通ル。やりハぬきミにて鉄砲ハ火ふたをきり火縄の火は両口ニて通ル」と書いており、松島宿に向った浪士隊が戦闘態勢であったことがうかがえます。平出宿で昼食をとった浪士隊は二手に分かれ、一隊は三州街道(国道153号)を、もう一隊は岡谷街道(県道19号線)を進み、松島追分で合流すべく進軍を続けました。暴徒集団と恐れられ、合戦を終えたままの姿の浪士達がすぐそこまで迫っていました。・松島宿の決断松島宿では、偵察に行った庄右衛門らによる和田峠合戦の様子や下諏訪宿での様子を聞きながら、止宿の是非を検討したものと思われます。高遠藩軍は逃亡し、下諏訪宿も空き家だったのだから、自分たちも逃げ出して宿場を空にするという意見もあったようです。しかし、浪士隊の怒りを買って宿場を焼き払われてはならないと考えた松島宿の人々は、自分たちの村を守るため、浪士隊を止宿させる決断を下しました。そして、村役人達が松島追分まで出向いて浪士隊を迎えました。和田峠合戦での血の跡も生々しく、甲冑で身を固め、抜身の槍や刀を提げ、火縄の付いた鉄砲を携えて到着した一行をみて、松島宿の人々は肝を冷やしたようだ、と伝えられています。元治元年(1864)11月21日、松島宿始まって以来の長い夜の始まりでした。・松島宿での分宿浪士達は松島村町方と北村(北町)の一部及び木下村に分宿しました。松島宿本陣の主人千葉原七郎右衛門が記した『元治元甲子年十一月廿一日水戸浪士泊名前取調帳松島宿』によると、この時止宿した浪士は約900人、馬は約150頭、籠が8挺でした。本陣には武田耕雲斎や田丸左京(稲之衛門)を始め80人が宿泊し、40人以上宿泊した宿が3軒、20人以上が9軒、10人以上が22軒、10人未満が24軒あり、街道沿いの宿約60軒に分宿しました。浪士達は義勇隊や虎勇隊、龍勇隊といった小隊に分かれており、医者も約10名同行し、隊ごとに宿泊しています。中には「女弐人小人壱人」との記載もあります。浪士が家族への制裁を恐れて同行させたものと推測されますが、詳細は不明です。松島町方分見取絵図(元治2年/個人所蔵)


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