庶民が見た幕末 ~箕輪郷騒動記~

箕輪町の文化財 - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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・平出宿通過と高遠藩の対応下諏訪宿で止宿した浪士隊は、翌21日は隊列も整えず岡谷で朝食をとり、平出宿で大休止をとりました。浪士隊は中山道を進軍するかと思われましたが、伊那街道を通過することを選択しました。その理由は、当時伊那地方では国学が盛んだったためではないかともいわれています。平出宿を治めていた高遠藩は、当初浪士隊が中山道を通ると考え、念のために野木要人を大将に700人余で陣を張っていましたが、和田峠での戦況を聞くと慌てて退却してしまいました。これに対し「親骨の肝腎要が逃げ出してあとの小骨はバーラバラ」という狂歌が作られ、民衆ほ高遠藩を嘲笑しました。しかし、この退却によって無用の戦いが避けられたのも事実で、野木は藩の非戦論に従ったとも言われています。いずれにしても、民衆だけでなく、武士にも判断が難しい緊迫した状況であったと思われます。・平出宿の人々水戸浪士西上以前から、浪士隊の動向は藩を通して民衆に伝えられていました。中山道を通り、高遠藩の出兵が決まると、現在の辰野町や伊那市からも人足が集められました。下辰野村から高遠藩に提出された『浪士通行之節御賄方扣』(個人蔵)によると、703人分の炊き出し米と人足1000人を負担し、炊き出し、使い、松明持ち、荷物持ち、陣間原・下諏訪町への探索等が主な仕事内容でした。また、『長野県町村誌』(明治10年取調)には、「村民事を聞て老幼を東西に放ち、人々震駭采色を生ず」とあり、古老の話として「平出宿の人々ほ皆恐れをなして2、3日前から家財道具や食糧等片付け、辰野や沢底方面の親類を頼って避難した」と伝えられています。民衆が驚き、恐怖で慌てて避難した様子がうかがえます。下諏訪宿平出宿付近コラム平出宿の首塚昭和27年、辰野町平出にある見宗寺の北東に平出公民館を建築した際、地元の人達が頭蓋骨が一列に並んでいるのを見つけたといわれています。周辺には胴体の骨のほか煙管や寛永通宝も見つかったため、まとめて見宗寺裏の共同墓地に埋葬したと伝えられています。当時、高島藩が幕府へ提出した届出には、浪士たちは討取られた味方の首を持ち去ったとの記載があり、和田峠合戦に参加した高島藩矢島伝左衛門が書いた『和田嶺砥沢口戦闘日記』には「右之外岡谷村ニ而薬用不届一人死又是ハ平出村之東方山中之寺ニ埋む」とあります。また、傷が深く進軍が続けられない浪士を平出宿で介錯したとも伝えられており、工事で見つかった頭蓋骨は、水戸浪士隊のものではないかと推測されていますが、詳細は不明です。


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