庶民が見た幕末 ~箕輪郷騒動記~

箕輪町の文化財 - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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・水戸藩の尊王攘夷思想の高まり欧米船の日本接近が相次ぎ、対応に追われていた老中阿部正弘は、外圧の危機を早くから説いていた斉昭の謹慎を解除し、謹慎蟄居していた改革派の家臣も復活させたため、再び斉昭が藩政を掌握しました。嘉永6年(1853)に黒船が来航すると、斉昭は幕府の海防参与に任命され、幕府に対して意見10カ条を提出し、鎖国を固持するための軍事力強化と欧米の軍事技術の導入などを訴えました。しかし、翌年開国したことを知った斉昭は参与を辞任し、藩の軍事力強化と教育機関の整備に力を入れ、大砲鋳造用の鉄を確保するための西洋式反射炉の建造や、弘道館の整備、農民達の教育機関である郷校の増設を行い、藩内の改革派は尊王攘夷思想を高めていきました。さらに保守派への圧迫を強め、藩元家老結城朝道を死罪にしたため、両派の関係ほ悪化しました。・戊午の密勅と安政の大獄日米修好通商条約締結後の安政5年(1858)8月、朝廷は幕府を通さず、直接水戸藩に勅諚(天皇の命令/戊午の密勅)を与え、攘夷実現のために諸藩と強調して尽力をするように命じました。面目をつぶされた幕府は、勅諚の返還を求め、朝廷もこれに応じたため、水戸藩内は勅諚の返還をめぐって分裂し、改革派の中でも返還拒否の激派とこれに応じる鎮派に二分していきました。激派は水戸街道の長岡宿に結集し、返納の使者が江戸に向かうのを阻止しようとしましたが、鎮派が鎮圧軍を編成したため、激派は脱藩し水戸から逃れ浪士となりました。この密勅に激怒した大老井伊直弼は、密勅に関わった人物を次々に捕え、死罪や獄門、流罪などに処しました(安政の大獄)。これに対し、脱藩した浪士たちは江戸城桜田門外で井伊直弼を暗殺しました。・天狗党の筑波山挙兵桜田門外の変に対して幕府の追及と水戸藩の取締りが厳しくなる中、浪士や藩内に残る激派ほ結束を強め、農民の教育機関である郷校に集結し、尊王攘夷実行のための同志を集めました。元治元年(1864)3月、藤田小四郎(藤田東湖の子)や町奉行の田丸稲之衛門らは水戸天狗党を名乗り、筑波山で挙兵しましたが、中には強盗をして資金を集めた者もおり、世間から暴徒集団として認識されてしまいました。これに対し藩内の保守派と鎮派は諸生派を名乗り、水戸城と江戸水戸藩邸の実権を掌握しました。幕府から藩内抗争の収束を命じられた藩主徳川慶篤は、支藩の穴戸藩主松平頼徳を名代として水戸へ下向させました(大発勢)。しかし、水戸城への入城を拒否されたため那珂湊(茨城県ひたちなか市)へ退きました。この軍勢に、失脚していた武田耕雲斎や山国兵部らが合流し、那珂湊に布陣していた天狗党もこれに加勢しました。諏訪・松本藩の陣が置かれた樋橋付近戦死した水戸浪士の墓(和田峠)


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