>> P.3
第1章水戸浪士の松島宿止宿1水戸浪士の挙兵・水戸藩の成立関ケ原の戦い以前、常陸国(茨城県)を治めていたのは佐竹氏でした。関ケ原の戦いで徳川軍に加担しなかった佐竹氏は秋田に移され、常陸にほ水戸藩が置かれ、慶長14年(1609)に徳川家康の嫡子である徳川頼房(家康の十一男)が入りました。頼房ほ、城と城下町の整備、家臣の充実、検地、街道と水運の整備、産業振興などの対策を行い、藩政の基礎を固めました。水戸藩は、尾張、紀州と共に徳川御三家の一つですが、他の御三家に比べ石高が半分で官位が低く、江戸定府制(参勤交代をしない)のため、家臣を江戸にも置かなければなりませんでした。また、御三家としての格式を優先して実態のない石直しを行い、内石(実際の石高)より表石(額面上の石高)が上回り、財政は恒常的にひっ迫していました。・水戸学と尊王攘夷思想2代目藩主徳川光圀(頼房の三男)は、『大日本史』編纂のため、江戸小石川の本邸に史局を置き、これを彰考館と称し、全国から優秀な学者を採用しました。後に水戸にも水戸彰考館を設け、史書の編纂を主務としながら、藩士子弟を対象に経典の講釈などを行いました。これが水戸学と呼ばれ、藩の学問として定着していきました。9代藩主徳川斉昭の頃になると、新たに藩校である弘道館を開校しました。この建学精神を説いた『弘道館記』を解説した「弘道館記述義」の中で、日本古来の道義と秩序の復興、尊王攘夷・忠孝無二・文武不岐・学問・事業の一致の為、衆思を集め群力をすべて国家無窮の恩に報いねばならないと説きました。この時、初めて使われた“尊王攘夷”という言葉が、幕末の動乱におけるキーワードになっていきました。・揺れる水戸藩8代藩主徳川斉脩には嗣子がなく、次期藩主に斉脩の正室の弟清水恒之丞を推す門閥保守派と斉脩の弟敬三郎(徳川斉昭)を推す改革派が対立しました。そして、斉脩が亡くなると斉昭を後継者に指名した遺書が示されたため、斉昭が9代藩主に就任しました。これに伴い斉昭を推していた彰考館の会沢正志斎や藤田東湖らが登用され、さらに中下士層の藩士が多く藩政改革に携わりました。保守派は、この時登用された人々を「成り上がり者が天狗になって威張る」という意味で、「天狗党」と呼び嘲笑しました。弘化元年(1844)、斉昭と親交が深かった老中水野忠邦が失脚すると、斉昭も謹慎となり藩主を息子の慶篤に譲りました。藩政は保守派の結城朝道(寅寿)が掌握し、これ反対する農民達を藩が強制的に抑えたため、反発が激化していきました。