>> P.2
・公武合体運動と尊王攘夷運動井伊直弼の後を受けた老中安藤信正は、一橋派の弾圧をやめ、朝廷と幕府の融和をはかる公武合体策をとりました。そして、文久元年(1861)には、孝明天皇の妹である和宮親子内親王を14代将軍家茂の夫人に迎えるべく下向させましたが、尊王攘夷(※天皇の権威の絶対化と封建的排外主義とを結合した政治思想)派の反感をかい、翌年坂下門外で水戸浪士に襲われて傷つき、失脚しました。公武合体運動は、幕府や雄藩の藩主層を中心に進められましたが、これと並行して、下級武士層を中心に急進的な尊王攘夷運動も次第に高まり、幕府の要人や外国人などが襲撃されました。この運動の中心となったのは長州藩で、朝廷の内外では次第に公武合体運動を圧倒して、激しい尊王攘夷運動が渦巻くようになりました。和宮通行後に記された済口證文(文久2年12月)・そして討幕運動へこのような尊王攘夷運動の高まりに対し、幕府や薩摩藩、会津藩などは朝廷内の公武合体派と提携し、文久3年(1863)8月18日に政変を起こし、長州藩の勢力を朝廷から一掃しました。その後、勢力回復の機会をうかがっていた長州藩は、池田屋事件(※京都池田屋で多数の尊王攘夷派志士たちが幕府の市中警備にあたる新撰組に襲撃されて死傷した事件)が起きると、元治元年(1864)7月に藩兵を大挙上京させました。しかし、幕府は会津・桑名・薩摩藩の兵で迎え撃ち、長州藩は大敗したため(※禁門の変)、尊王攘夷運動ほ大きな痛手を受けました。この後、それぞれの事情で諸外国の力を認めざるを得なくなった薩摩・長州両藩は同盟を結び、朝廷も攘夷の方針を捨てたため、時代の流れは次第に、古い幕府を倒して新しい政府を造ろうという機運へと変わっていきました。