庶民が見た幕末 ~箕輪郷騒動記~

箕輪町の文化財 - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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序章幕末日本の様相・鎖国政策の動揺日本がいわゆる鎖国政策をとっていた江戸時代、欧米諸国は17世紀後半〜18世紀を通じて市民革命を成し遂げ、近代市民社会を生み出していました。また、18世紀後半にほイギリスで産業革命が始まり、蒸気を原動力とした機械の利用によって生産力は飛躍的に増大し、産業資本を中心とする資本主義が確立しました。こうした力を背景に欧米列強のアジア進出が本格化し、その波は清国を経て日本にも及びました。列強の日本への接近は18世紀末〜19世紀初めに始まっていましたが、世界情勢の認識に乏しい幕府は鎖国政策を守ろうとし、文政8年(1825)には異国船打払令が出されました。しかし、天保13年(1842)に清国が阿片戦争でイギリスに敗れたニュースがもたらされると、幕府は異国船打払令を廃止して、外国船に燃料・食料を供与して、穏やかに退去させる方針をとりました。しかし、列強の圧力ほ次第に強まってきました。・開国アメリカは1848年にカリフォルニア地方を獲得しましたが、同地方でゴールドラッシュが起こると、アメリカ人の関心は太平洋岸に集まりました。そして、太平洋を横断した対中国貿易を企てるに至り、貿易船や捕鯨船に食料や燃料を補給する寄港地が必要となり、日本開国の要請が高まりました。こうした中、東インド艦隊司令長官のペリーが4隻の軍艦を率いて浦賀に来航し、アメリカ大統領の親書を渡して開国を求めました。そして、翌年再び来航したペリーが、武力を背景に強硬に開国を迫ったため、幕府はやむなく日米和親条約を結ぶに至り、次いでイギリス・ロシア・オランダとも同様の条約を結びました。また、安政5年(1858)には、幕府が孝明天皇の勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印しました。これは不平等な裁判権を認め、外国に有利な関税税率制度を採用する、日本に不利な条約でした。・桜田門外の変開港問題をめぐる紛糾の中、老中阿部正弘らは先例を破って諸大名に意見を求めたため、これまでの幕府の独断専行のやり方は崩れ、諸大名や、これまで政治に関与しなかった朝廷の発言権が次第に強まりました。こうした中、条約勅許問題に加えて、安政5年(1858)には将軍継嗣問題が発生し、水戸藩主徳川斉昭や薩摩藩主島津斉彬らは一橋慶喜を、彦根藩主井伊直弼らは紀州徳川慶福を推しました。前者が雄藩の協力によって対外危機にあたろうとしたのに対し、後者は幕閣独裁によって難局を乗り切ろうとし、激しく対立しました。こうした中、井伊直弼が大老に就任し、井伊は朝廷の勅許を得ないまま日米修好通商条約を締結しました。また、紀州徳川慶福を14代将軍家茂とし、これに反対する一橋派の運動を厳しく取り締まりました。しかし、これに憤激した水戸浪士たちによって、万延元年(1860)に桜田門外で暗殺されました。


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