満州開拓 富貴原郷開拓団の記憶

満州開拓-富貴原郷開拓団の記憶 - 箕輪町郷土博物館開館40周年記念冊子 - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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い別れを告げ、隊の移動が始まる。武装解除。翌朝まだ暗いのに集合がかかり、隊長いわく、「本部より伝達があり今朝六時にソ連軍より人員点呼がある。召集兵の皆さんは家族の事が心配です。私の判断で唯今召集解除をします。一時も早く目的地に向って下さい。汽車には乗れません。満人に変装し、夜間の行動で向って下さい。内地よりの現役兵は私の責任で指揮を執る。」さあ大変、朝食どころかごった返しのさわぎ、てんでに荷物をまとめ、行先同志を誘い合い、たまたまチチハル方面へ行く兵隊五・六名出来た。おい頼むぜと夢中で飛び出した。なんでも早くざいに入らねばと広い道を避け、さんざ歩いた。腹もへりくたびれた。日は西に傾いていた。丁度向うに二・三軒の農家が見えた。先ず服を替えようという事になり行ってみた。五・六匹の犬に吠えられ、クリー達が出て来た。服を替えてくれと頼んだが話が進まず、諦めて他へ行こうという事になり、そこを出た。しばらく行くと後ろの方でなんだか賑やかく、見れば馬に乗っててんでに支那鎌を振りかざし、大勢ワイワイ言って追いかけてくるみたい。それ逃げろと誰か言うともなく夢中で畑の中に飛び込んだ。折角苦労して背負って来た荷物を放り出し、伸びきったコーリャン畑へ一目散逃げ込んだ。しばらく走って息せきこらえて耳をすませば、ナアベンナアベンと聞こえる。まだ駄目だと奥に進み、疲れて深い畦間にぴったり伏せていた。色々と考えた。暗くなるまでと度胸を決めて待った。疲れて半分眠り、ようやく月が出た。いやに明るかった。体をおこし手足を揉んで、ようやく恐る恐る道までもどった。声が出ない。そのうちに三人集まる。他の兵隊どうしたんだと捜す事になり、コーリャン畑の隣は大豆畑で、奥の方にクシャクシャになって見えるので行って見たら、血だらけ丸裸にされ死んでいる、余りにも残酷な姿でした。又行ってみれば同じ事。同志二人を亡くしてしまった。命拾いした俺達三人で色々話し合った。この兵隊の最後を見届けたけれど、チチハル方面へ帰るということだけで名前も名乗らず、ただ歩いてきただけ。誠にどうすることも出来ない無残な最後でした。それからは三人名乗り合って、もしかの時は頼みますと誓い、夜のうちにここを早く抜け出そうと、かがみに成って又歩き出した。だいぶ歩いて夜が明けて、一軒の家を見つけ、どうしても軍服ではまずいので、恐る恐る近づき声を掛けた。犬が三・四匹吠え出した。ジヤングイらしい者が出て来て犬をだました。ありがたい事にこの家の人達は何も知らず、素直に替えてくれ、食事まで一生懸命もてなしてくれた。なんでも松花江を渡らん事にはチチハルに行けん、思案の挙句、町には入らん事には、サンカジュの町にたどり着いた。満人のふりをして行ったけれど、リーペンだと男達に囲まれ、満系の警察に連れて行く。その内に日系同志が同じ様に日本人狩りに引っ掛かり連行された。二十余名に集まって縄で繋がり、刑務所の豚箱に込められ、監獄生活も味わった。五・六日経つと豚箱は一杯になり、又繋がれて馬車輸送で日本人避難民収容所に送られた。そこには三百人くらい、婦人・子供が多く、元召集兵・開拓団員・一般日本住民の集まりで、食糧は粟・コーリャン・モロコシ・大豆等で、生の配給のため個人炊事。空缶でおこんじ生活が始まった。そのうちに小さい収容所から大きい収容所へ移され貨車輸送。牡丹江まで行き、寒くなってハルピンに戻る。そのうち栄養失調と病気に負け、毎日死んでいく哀れさ。乳飲み子は一番先に駄目になる。四・五歳の子供を持つ親は子供に食糧をせぶられ、親が先に駄目になる惨めさ、言葉に表せない。まさに生き地獄であり、悲惨な生活を余儀なくさせられ、食糧難と厳寒に耐えられず、内地帰りを夢に見ながら異国の地で死んでいく同志を、どうする事も出来ず呆然と見守るばかりでした。他国で敗戦の犠牲になられた多くの人達の御冥福を祈ります。又、苦難の道をのりこえて祖国に帰られた同志の皆様の、末永く御健康と御多幸を祈ります。昭和五十七年十二月入植抑留生活帰国迄の記録満州国興安東省阿栄旗(布特哈旗)太平溝第十一次富貴原郷開拓団花丘部落向山一雄入植抑留生活帰国までの記録十七年夏、兄が満州富貴原郷勤労奉仕隊として一ヶ月間の予定にて帰国するのを待って、自分は八ヶ岳習練農場にての訓練を終了。旧中箕輪役場(建設本部)にて送別会をしていただき、区民の皆様からは盛大に見送られ、日満国旗を背に新潟港を出帆・入植し、先遣隊が家族招致に出発。約一ヶ月半の予定、帰団するのを待って、団長の命令で、あても無いままに家族招致という事で帰国し、従姉妹の世話にて見合結婚の運びとなり、三月二十六日、四組一緒の建設本部にて団服にモンペ姿の神前結婚式を挙げ、関釜連絡船にて入団す。余は略す。二十年五月十日、遂に召集が来た。当団では小川・田中・自分の三名である。総て準備・覚悟はしていたものの、いざとなれば落ち着けぬ。二日後の十二日、ハイラル二〇四、九八部隊に入隊と有る。妻には教育召集で三ヶ月すれば帰れるからとは言ったが、自分にはこれが最後の別れと思えてならなかった、という事は常に開拓団には召集は無いと聞いて信じていたからである。いよいよ出発、部落の皆様・兄夫婦・妻子等に見送られ団のトラックに乗車、兄は俺の手をしっかりと握り、声は無く横を向いたままであった。あの時の兄貴の顔を思い出しては今でも目頭が熱くなる。兄もソ連に抑留され二十二年に死亡した。トラックにて十八里余の道を、夕方札蘭屯の弁事所にて一泊し、明早朝出発。入隊してみれば輜重兵馬を扱うのである。我が家は父が馬車引きであり、子供の頃から馬の手伝いばかりさせられたので、馬を扱う事は自信があるので少しは気


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