満州開拓 富貴原郷開拓団の記憶

満州開拓-富貴原郷開拓団の記憶 - 箕輪町郷土博物館開館40周年記念冊子 - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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満州の思い出満州富貴原郷花丘部落長野県上伊那郡南箕輪村大芝本人宮下泰之妻園枝長男勝美思い出を少し書きます。大陸にあこがれて渡満する事になり、八ヶ岳訓練所に入所し訓練を無事終り、すぐ中箕輪町の役場の二階で、小池豊平さんと一緒に結婚式を盛大にやって戴きました。渡満は山崎千十さんと一緒に新潟港より渡満致しました。ジャラントンの連絡所には、団より浦野正清さん(小生のいとこ)が丁度おりまして、明日トラックに乗せて戴き、目的地の富貴原郷に着き、大陸にあこがれて来た甲斐があった。広い平らな良い所でした。本部の平松さんの所で三日ばかり御世話になり、花丘部落におちつく事になり、部落長の浦野正清さんの案内で部落に行き、一軒家を戴きました。その晩は部落でノロ(日本ではシカ)を一頭獲って来て、小生のためにお祝いを盛大にやって戴きました。その年は共同作業で広い畑を楽しくやりました。内地の百姓と大変に違い、のんびり出来ます。昭和十九年九月十二日は長男勝美が産れました。その朝は馬で泉平まで産婆の保科さんを迎えに行きました。産婆さんも、生まれて初めて馬に乗り、初めは恐がったが今は大変慣れて良くなりました、と言って馬に乗ってきました。昭和二十年は馬三頭に畑を九十反歩戴き、蒔きつけは共同作業でやり、その後は個人でやりました。一息していた矢先、小生に召集令書がきました。小生の召集令書が来た時は、丁度弟の勝彦さんが義勇隊より富貴原郷に来て、共同作業で百姓をやっておりましたので、安心して妻や長男勝美を御願いしてチチハル部隊に入隊致しました。小生が入隊して二十日で終戦となり、富貴原郷に残した妻や弟、子供達は大変に苦労して逃げ回って帰って来た様子でした。でも皆元気で帰って来てくれて嬉しかった。これも富貴原郷の皆々様のおかげ様でした。ありがとうございました。小生も終戦後はシベリヤに連れられて行き、二十年から二十三年五月まで、寒い冬を三回も過ごして来た。毎日寒い日でも伐採作業で暮して来た。戦友達も栄養失調で三分の二も死んで行きました。死んで行った戦友の一人が言った事に、内地に帰ったらヨウカンやお菓子を腹一杯食べさせてくれよ、と毎日のように言っていて死んで行きました。でも小生は昭和二十三年五月、シベリヤから無事に内地に帰る事が出来ました。今は南箕輪村大芝に畑一町七反歩、田圃二反歩を持つ百姓で酪農をやっています。終り満州での思い出松澤政文自分達の部落は本部より約一時間半くらい離れた所に有り、小山を後ろにして日なた向きで、前は大きな湿地帯、地下水高く、夏はごんごん大量に吹き沸き、冬は長い柄の付いた柄杓で汲めるという。飲水に恵まれているところから泉平部落と呼ばれ、春はアンズ・チヨン花、色んな草花咲き乱れ、のどかな第二の祖国、我が楽土であったが、忘れもされない昭和二十年四月十五日、一瞬にして一部落野火に襲われ丸焼け、誠に着のみ着のままという大惨事に遭い、本部又は他の部落より救援物資をいただき、近くに満人の大きな家を一軒借りて、共同生活・共同経営で再建という事で力を合わせ、春の蒔付けも終り、作物の手入れに専念。六月も過ぎ、時に南方戦地のニュースは有利でない様なニュースも入り、あちこちの開拓団へも召集赤紙が来て、物騒な世の中になって来たと思ったら、いよいよ自分にも七月二十日本部より伝令が来て召集、七月二十五日チチハル部隊入隊という事になった。他国に来て、丸裸に焼け出され、何よりも大事な妻子と赤紙により別れて戦地に向うとは、こんな約束ではなかったに、国策に沿って北の守りに行くんだから、在郷軍人は有るけれど召集は無いと言った言葉が憎かった。それから二日間、丸裸になった自分には特別片付け事もないけれど、言葉にならぬ複雑な思いでした。二十三日、懐かしい部落の皆様と断腸の思いで別れを告げ、妻子と本部に近い大和部落の植田兄の家に一宿お世話になり、銃後の事は一切お願いし、いよいよ二十四日早朝本部集合。銃後だけは無事であれと祈念し団を出発。それから花岡部落まで見送られ、皆んなで軍歌を唄って励まし合い、花岡の岡でいよいよ妻子とも最後の別れ。お互いが小さくなるまで、見えなくなるまで背伸びして手を振って、軍歌でごまかし、これが誠に後髪を引かれる思いで、これが最後かと思えば、涙がやたら出てどうにもならなかったあの思い。それから車はジャラントンより汽車に乗り、夕方チチハルに着く。倉田さんの親戚を訪ね、赤飯等で祝ってもらい、大変お世話になって、翌日二十五日無事入隊。直ちに広場において部隊編制。四・五日程経ってハルピンへ警備ということで出勤。小学校が兵舎代わり、警戒に当る。自分は炊事班にまわされた。食糧不足で半減食給与となる。近所の婦人会で炊事の手伝い奉仕に来てくれた。夜ともなると銃声が遠く近く聞こえる様になり、戦地を知らない自分には身の締るを感じた。その夜いつもお手伝いに来てくれる小母さん達が泣きながら来た。どうしたんですかと聞けば、「今十二時のニュースでそれ前に重大ニュースがあるからラジオの前に集まるようにと言われたので、確か天皇陛下がやさしいお声で日本は負けましたと言いました、悔しくて悔しくて」と。兵隊はそれはデマ放送だと言って励ましたが、そのうちに兵隊同士もざわめき始めた。その翌朝の事であった。全員広場に集合がかかり、隊長より詔勅の伝達があり、次の命令を待った。毎日お手伝いに来てくれた小母さん達と寂し


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