満州開拓 富貴原郷開拓団の記憶

満州開拓-富貴原郷開拓団の記憶 - 箕輪町郷土博物館開館40周年記念冊子 - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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楽に思えた。早速各人に馬が渡された。自分にはヒタチという名前の馬である。続いて馬の手入れの仕方、車両等の説明の教育を受ける。演習から帰った時の手入れ、足を洗う、マッサージ装具の着け方等。その折に何か自分の馬だけが蹴る・噛み付く・立ち上がって抱き込む、なんと癖の悪い馬が当ったのだろう。でも仕方がない。地方ならすぐ叩いてやるのに、軍隊とあってはどうすることも出来ぬ。班長いわく、馬は兵器である、お前たちは一銭五厘の葉書でいくらでも来るのであるという有様。いよいよ車両にて輸送、整列すると班長はいう、向山は前車両の後に続けという。何の事かわからぬが、言われるままに出発すると、前車両より前に出ようとしてがたがたして立ち上がる。馬には自信があるはずなのに自分にもてこずるくらい。班長はいう、向山のヒタチは中隊一のへき馬(悪い馬)だから充分気をつけて扱え。やっと班長の言った言葉が自分には読めたのである。自分には何か手柄の様な気がした。よし頑張るぞと我が胸に誓うのである。三ヶ月余の演習中、今日まで無事興安嶺の山中で人量馬量の夜間輸送であったが、この頃より急に敵機が頭上に現れる様になり、何となく戦況は非常に切迫してきたかの思いである。突然八月十六日早朝、博克図(ブハト)の山中で輸送中、広場に集合してみれば、ソ連兵が馬上にて剣銃をむけて続々と我々のまわりに入ってくる。班長の命令、馬・車・銃、全てその場で没収され整列である。隊長より報告あり、我が日本軍は無条件降伏したのである、今より直ちに武装解除せよとの達しである。皆驚きただ呆然とする、この世の中に神も仏も有るものか。一応近くの建物に収容される。ここは病院らしく、医薬品・リンゲル等一面に散乱していた。入隊以来三ヶ月にして我が関東軍そして日本帝国も終りなのか、そして団に残してきた妻子はどうなるのか思えば胸も張り裂けんばかり。満州における全ての夢は無残にも破り去られ、満州での生活も終りなのか。かくしてその後にも召集召集で、開拓者は血気盛んな人々が奪い去られ、残る年寄り・婦女子は死と恥辱への残酷な道へと追いやられてしまうのであろう。余は略す。自分達もここで自決するのかとまで思ったが、突然十月二十三日夜貨車にて出発。二十六日朝着いた所はハバロフスク地区ハハトイ収容所である。自分達は混成部隊なのである。義勇軍・開拓団・民間人・鉄道員等職業も千差万別、一、二〇〇名の編成にて一緒に乗車して来たが二つの収容所に別れた。作業は伐採と製材工場等である。身体検査があり、一級・二級・三級とに別れた。一・二級者は外の作業、三級者は舎内作業と決定した。早速明日から作業、三十五度までは作業、それ以上になれば待機であった。風邪を引いても三十七度までと、神経痛・リウマチ等熱の無い病気は認められず、杖をつきびっこを引いてまでも作業に出た。零下三十度以上の大陸の冬の厳しさは絵にも口にも尽くす事が出来ません。驚く無かれ、来春三月までに抑留以来五ヶ月間に六〇〇名中二百五十名が死亡した。当団の小川さんもその一人であった。遺品は何一つとって置く事は出来なかった。残念ながら帰国後早速奥さんに伝えた。夏ともなれば作業の往復、道端の食える草は監視の隙を見ては採ってきて、食堂で食事の足しにした。また、道の馬糞が黒パンに思えて誰もが拾ってはみた。子供には馬鹿にされ、唾かけられても手出しも出来ぬ。実に捕虜生活の愚けなさ・惨めさが身にしみるのであった。果てしない異国の広野に白骨を晒す運命を背負わせて、幾多の者が美名のもとにかり出され、地獄絵の苦しみの中で故里を夢見、親兄弟姉妹妻子の名を呼び続けて淋しく死んでいった。作業中に鋸・斧等破損すれば、収容所に帰ってきて、そのままの支度で食事も与えられずに明朝までエーソウに入れられ、そして朝食を一緒に食えば又同じ様に仕事に行く始末。夏の夜はまだ良いとしても、冬の零下三十度余の火の気の無い小屋の中で、仕事の疲れ・空腹・それに寒さ、夜中足ぶみ、これでは熱発・凍傷して死亡しなければ不思議である。疲労・睡眠不足・それに三食一回に食っても満腹しない食量。朝食の折、昼食として子供のおやつ程度の黒パンが渡されるが、一緒に食うが腹八分以下。それで仕事は百パーセント。作業中斧のクサビを入れようとして指を切断した人が帰って来てエーソウに入れられた。故意にやったという事である。実に我々には信じられぬ有様。自分も抑留中、熱発入院、風土病にてネフローゼ(ムクミ)と他は鼻・口から出血、四十度余の高熱が十日余も続き、尺五寸程の寝台から落ちればどうしても上がる事さえ出来ず、その間水も飲めぬ始末で苦しんだ。今思い出しても恐ろしい、よく命が有ったと不思議に思う。そして退院し、又一級者として前の伐採作業であった。春になり、大部分の人が夜目性で、夕方になると便所に行けぬ始末。三十メートル離れた便所まで縄を張り、それにつたわり往復する。伐採に行けば一日中松ヤニを噛み、松の内側の皮は食う。初めは苦いが丁度今のガムと同じようである。生の大豆も一握り食えば、後は生臭くなく実にうまかった。昼は仕事に気をとられ感じぬが、夜ともなればしらみの行列・南京虫とに悩まされ、身体中がボロボロ。そして一夜に五人余も死んだ晩もあった。冬の死亡者は全て褌まで取られ、小屋の中に投げ込み、そり一台になると馬で雪の中に置いてくる。ある日、作業から帰ると突然帰国(ダモイ)と言う。作業の疲れ・空腹も忘れて、子供同様抱き合って喜んだ。入浴後、頭・脇・陰部全ての毛はお互いに刈り合った。しらみの卵があるからである。そして六種混合の注射、DDT粉剤での消毒、褌に至るまで全部取り替え新しい衣服。明日真夜中に貨車にて出発した。二昼夜程走って下車した。ここはチタの収容所である。喜んだのも束の間、前の収容所と作業は同じである。この収容所に来てからは、毎晩十時頃まで共産教育をやるようになった。指揮者は日本人下仕官級である。共産党誌を手に作業の量(ノルマ)、一日中早くやれ(ダワイ)でせきたてられ、くたくたで帰ってきて空腹も忘れて寝台に横になる始末。又始まる教育、居眠りすればピンタ・足で蹴る。彼らは日中作業にも出ず、収容所内でぶらぶらしているので疲れない。それに炊事場に行っては試食などと言ってはつまみ食いする有様。日本は負けたのに彼らは肩の憲章に星一つくらい付け加える始末。旧軍隊以上の有様。満腹感、寝る事、他は団に残した妻子の安否を思えば胸も張り裂けんばかり。お互いに耐え


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