生誕120年 探偵作家 大下宇陀児

生誕120年 探偵作家 大下宇陀児 - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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甲賀三郎との本格・変格論争大下宇陀児は、昭和6年(931)5月から『新青年』に「魔人Jを発表しました(~昭和7年1月)。これに対し、同年7月16日の東京日日新聞に、甲賀三郎が「魔人」を批判する評論を掲載しました。甲賀は、探偵小説は純粋に謎解きの面白さを追求する“本格"でなければならず(そうでないものは“蛮格")、「魔人Jは探偵小説ではないと主張しました。これに対し宇陀児は、「探偵小説を謎を解く小説だとのみ考えた場合に、こうした新しい企てによって書かれた小説は、探偵小説と呼ぶことが出来なくなるのかもしれない。そう呼べなかったにしたところで何であろう。要するところは、読者がその読物によって満足させられさえすれば良いのである。」と反論しました。E区~ライバル甲賀三郎大下宇陀児と“本格・変格論争"を繰り広げた甲賀三郎は、宇陀児より3歳年上で、第一高等学校の先輩でした。東京帝国大学で応用化学を学んだ甲賀は、一度会社に勤めた後、大正9年(90に商工省臨時窒素研究所に就職し(※宇陀児よりI年先)、大正12年(1238月には、雑誌『新趣味』の懸賞小説に応募した「真珠搭の秘密」が入選して、探偵作家としてデビューしました(※宇陀児より2年先)。また、昭和3年(92)には作家専業となる(※宇陀児より1年先)など、二人は常にライバルの関係でした。しかし、二人の“本格・変格論争"は、横溝正史が「甲賀が論客で堂々と論障を張っていたのに対し、大下はあまり議論を好まない方であった」と話したように、スタンスは全く異なるものでした。また、後年甲賀が亡くなって、その家族が生活に苦しんだ際には、宇陀児が一番手を差し伸べるなど、二人は良き仲間でもありました。「焔印」とロマンチック・リアリズム探偵作家としての地位を確立し、順調に執筆活動を続けていた宇陀児の作品の中で、その後の大下宇陀児の作風を方向付ける転機となったのが「焔印J(昭和10年6~7月/r新青年.1)でした。この頃、ス卜リ(書き)の面白さはもちろん必須だが、それだけでなく、一人の人聞を掘り下げて描写することが必要だと考えた宇陀児は、以後の作品では、魂のある人聞を描くことに主眼を置き、犯行の動機や最後の結末などに力点を置くようになりました。これが、本人のいう“ロマンチック・リアリズム"で、後年宇陀児は、昭和24年10月の著書『熔印Jの作者後記の中で、「私の書く探偵小説は、こういう線で進みたいと、その頃に私は考えはじめたわけである。」と記しています。「魔人j第1固(r新青年J)6-21[昭和6年5月〕「焔印j前編『新青年J16-7)[昭和1年6月〕5


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