生誕120年 探偵作家 大下宇陀児

生誕120年 探偵作家 大下宇陀児 - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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「凧」と「偽悪病患者j大下宇陀児は、昭和11年1月に「偽悪病患者Ja新青年.1ぎあくびょうかんじゃ17-1)を、同年8月に「凧Ja新青年.11-9)を発表しました。このうち「凧jは、子供の観察眼を通じて事件の真相に迫る作品で、宇陀児自身は好きな方の作品だと語っていますが、この作品について江戸川乱歩は一切触れず、同じ年に発表された「偽悪病患者」の方を褒めてくれたと記しています(昭和26年2月『偽悪病患者』作者後記入「偽悪病患者Jは、兄と妹の手紙のやリとりを通じて、殺人事件が発生し、犯人も明らかになっていくという手紙形式のミステリです。凧Jも「偽悪病患者」も、人物を通じて事件が明らかになっていくという宇陀児の作風を示しています。「「偽悪病患者J(r新青年.117-1)[昭和11年1月〕凧J(r新青年.1「17-9)昭和11年8月〕駅を挟んで二人の町会長昭和9年(13)7月、大下宇陀児は池袋駅東側の豊島区池袋東2-16(雑司ヶ谷)に家を新築しました。そして、昭和1年頃には、近所の方に推されて雑司ヶ谷五丁目町会の町会長となリました。戦争が激しくなり、東京への空襲が激しくなると、妻子や親戚を疎開させましたが、宇陀児は一人残り、終戦後の昭和2年まで、配給の世話や民生面での仕事に奮闘しました。池袋から雑司ヶ谷にかけての一帯は、昭和20年4月13日の空襲で焼け野原となり、自宅も地下壕以外は灰となってしまいましたが、町会長の責任から、あくまで東京に留まりました。この頃、池袋駅を挟んで目と量の先(駅の西側〉には、江戸川乱歩が住んでいて、同じように町会副会長を引き受けて、やはり奮闘していました。戦後再建された雑司ヶ谷の自宅の前で-6


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