生誕120年 探偵作家 大下宇陀児

生誕120年 探偵作家 大下宇陀児 - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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ロマンチック・リアリズム唱(戦前の作品)作家専業となる大下宇陀児が勤めていた窒素研究所は、商土省の外郭団体(官立〉で窃り、技術者として働いていました。しかし、研究所の月給(同)だけでは、郷里の両親へ十分な仕送りをすることが出来なかったようで、デビュー作が『新青年Jに掲載されて得た原稿料(円〉は大変うれしかったようです。元々作家を目指していた訳てやはなかったため、その後幾作品か掲載されても、作家として立って行く決心はなかなかっきませんでした。しかし、昭和4年(19に窒素研究所が解散することになると、企業から就職の話もあったようですが、これを機会として、作家専業で生きて行くことを決めました。経済的苦境時代と歌子夫人作家専業になると、収入は『新青年J等に作品が掲載された際にもらう原稿料だけとなリ、生活はとても不安定になりました。これより前、宇陀児は歌子と結婚しました。歌子は浅草生まれの生粋の江戸つ子で、宇陀児よリ4歳年下でした。歌子夫人は、作家専業後の厳しい生活の中でも、しっかりやリくりをして宇陀児を支えました。こうした時期に発表されたのが「阿片あへん夫人J(昭和4年4~10月〉や「蛭川博士J(昭和4年8~12月)で、初めての長編でした。両作品に対する本人の評価は寒々しいものでしたが、本人の意に反して世間の評判は上々で、大下宇陀児の探偵作家としての地位は揺るがぬものになりました。『蛭川博士j(昭和5年2月)Ei~wa::区~愛妻木下歌子「妻を私はオカミさんとよぶ。そしてこのオカミさんは、私にとっては、まことに適切妥当なオカミさんだ。オカミさんもまた私を、彼女にとっては適切妥当、もしかすると最上の亭主だと思っているかもしれぬ、と私は思うのである。オカミさんの名をとって私の筆名を作ってから、もう三十年になる。その聞に、すさまじいけんかをしたこともないではないが、お互いによく飼いならしてきた。オカミさんは、ぜいたく好きでなく外出好きでなく、手が器仲の良い大下夫妻用で、服も自分で工夫してこしらえ、だから金がかからなくて、私は助かる。困るのは、私と同じくらい、物忘れが上手なことで、忘れたことから、忘れたもの同士で、ちょくちょく、口げんかもするのだが、まアまことに仲の良いお友達であることはたしかである。(昭和29年7月『週刊朝日J59-31í妻を語る~オカミさん~Jより)-4一


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