もうひとつの遭難 ~中箕輪国民学校の直江津遭難~

もうひとつの遭難 ~中箕輪国民学校の直江津遭難~ - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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関係年表(年度)年度出来事明治5(1872)●政府が「学制」を頒布。現在の箕輪町内の各村にも小学校が出来る。明治18(1885)明治19(1886)明治21(1888)●文部大臣森有礼が「森文相教育上奏文案」の中で、将来の勇敢な軍人を育てるために兵式体操の採用を主張。●2月、修学旅行の嚆こうし矢といわれる東京師範学校の長途遠足が実施される。●8月、「尋常師範学校設備準則」の中で修学旅行の定義が示され、修学旅行の名称が法制化される。明治23(1890)●10月、「教育二関スル勅語」発布。明治25(1892)明治26(1893)●文部省が、文部大臣訓令で心身鍛練と知見の拡大を目的とした修学旅行を奨励。●牛沢(旧姓稲葉)搏美氏が、上水内郡南小川村大字小根山の稲葉郡重氏の二男として生まれる。『牛沢搏美先生』明治30(1897)●この年、長野県下の各小学校で宿泊を伴う修学旅行を実施。『長野県教育史』明治31(1898)●この頃、長途修学旅行への批判が出はじめる。明治34(1901)●文部省令で兵式体操が体操科の中に位置づけられたため、必然的に修学旅行と分離される。明治41(1908)●「小学校令」が改正されて義務教育が6年となる。明治42(1909)明治44(1911)●稲葉搏美氏が、上水内郡水内村の牛沢保吉氏の養子となる。『牛沢搏美先生』●中箕輪尋常高等小学校の高等科二年生(有志)が、修学旅行として駒ヶ岳登山を実施。『監護日誌』大正1(1912)●牛沢搏美氏が尋常小学校准教員を免許す。『牛沢搏美先生』大正2(1913)●8月26日、中箕輪尋常高等小学校修学旅行登山隊(高等科二年生、教師、青年会員)計37名が、駒ヶ岳山上で暴風雨に遭遇し、11名が死亡。大正4(1915)●牛沢搏美氏が尋常小学校本科正教員を免許す。『牛沢搏美先生』大正7(1918)大正8(1919)大正9(1920)大正12(1923)大正13(1924)●中箕輪尋常高等小学校高等科二年生が伊勢方面への修学旅行を実施。『学校日誌』●中箕輪尋常高等小学校尋常科六年生が直江津方面への修学旅行を実施。『学校日誌』●10月~、中箕輪尋常高等小学校では、その後約二年半にわたり校長不在の教育空白時代。●3月、中箕輪教育再建のため、高橋慎一郎氏が中箕輪尋常高等小学校校長に着任。●3月、高橋慎一郎氏に懇請され、牛沢搏美氏が中箕輪尋常高等小学校訓導に着任。『牛沢搏美先生』大正14(1925)●中箕輪尋常高等小学校で、高等科二年生の駒ヶ岳登山を再開。大正15(1926)●軍事教育の教練のための青年訓練所が開設される。昭和2(1927)●3月、牛沢搏美氏が長野市後町尋常高等小学校へ転任。『牛沢搏美先生』昭和4(1929)●世界恐慌始まる。昭和6(1931)●満州事変が起こる。昭和10(1935)●青年学校が設置される。昭和12(1937)●日中戦争が始まる。昭和14(1939)昭和16(1941)3月1日3月31日4月1日4月14日●病気の人以外は、公立か私立の青年学校に籍を置くことが義務付けられる。●「国民学校令」が公布される。●牛沢搏美氏が中箕輪尋常高等小学校校長兼訓導に着任。●小学校が国民学校となる。●牛沢校長が職員会で「文武両道によって忠孝仁義の善士を育てること」を教育の方針とすることを明示。『牛沢搏美先生』12月8日●太平洋戦争勃発。昭和17(1942)3月28日9月12日9月13日●牛沢搏美氏が中箕輪高等女学校校長を兼任す。『牛沢搏美先生』●6時42分伊那松島駅発の電車で、中箕輪国民学校6年生第1班(2組・5組)が直江津修学旅行へ出発。『校務日誌』●4時42分伊那松島駅発の電車で、中箕輪国民学校6年生第2班(1組・3組・4組)が直江津修学旅行に出発。途中、脇野田駅で帰りの1班の列車と行きの2班の列車がすれ違い、お互いに手を振ったとのこと。10時30分すぎに春日山駅に到着し、春日山城址・林泉寺・水族館・国分寺を歩いて見学して、15時30分頃につたや旅館に到着したとものと思われる。『直江津遭難の記』●現地の天候は曇りであり、波はかなり高かったものと思われる。一説には、当日暴風警報が出ていたという話もある。『S17.9.15信濃毎日新聞』『S17.9.18廣岡県視学との対談記録』等―20―


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