もうひとつの遭難 ~中箕輪国民学校の直江津遭難~

もうひとつの遭難 ~中箕輪国民学校の直江津遭難~ - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


>> P.19

2東京大空襲と牛沢先生の遭難◆戦況の悪化と本土空襲太平洋戦争の戦況は徐々に悪化し、昭和19年6月16日には、中国の成都から飛び立った約50機のアメリカ軍爆撃機が北九州上空に現れ、初めて本土が空襲される事態となりました(※目的は八幡製鉄所等の空爆)。また同じ頃、アメリカ軍は日本統治下のサイパン島に上陸し、サイパン・テニアン・グァムの三島を順次陥落させ、ここを拠点として、昭和19年11月からB29による本格的な本土空襲を開始しました。アメリカ軍の空襲は、当初は明確な爆撃目標(※例えば軍需工場や製鉄所等)を決めて、そこを徹底的に破壊して敵国の降伏を促すという精密爆撃でした。しかし昭和20年になって、精密爆撃を遵じゅんしゅ守していたハンセル准じゅんしょう将が更迭され、司令官がルメイ少将に代わると、都市そのものを工場といわず住宅といわず全て焼しょういだん無差別爆撃が行われるようになりました。夷弾で焼き払うという、※無差別爆撃は、昭和20年3月の東京大空襲を始めとして、6月半ばまでに名古屋・大阪・神戸・横浜・川崎の六大工業都市に行われ、これらの都市は空襲によってほとんど壊滅させられました。また、その後アメリカ軍は、人口が多いという理由だけで、第1位の東京から180位の熱海まで人口の多い順に番号をつけ、大都市・中都市・小都市の順に空襲して、焼夷弾で町を焼き払うという行為を続けましたが、64番目の都市(長野市)を空襲した時点で終戦になりました。◆東京大空襲昭和20年3月10日午前0時8分すぎ、334機のB29が襲来し(※アメリカ側資料による)、東京の墨田・江東地区に焼夷弾による絨じゅうたん毯爆ばくげき撃を行いました。B29は、高度1500~1800メートルの超低空で侵入し、一機平均6トンの焼夷弾を投下しました。火は折からの強風にあおられて大火災となり、午前3時20分の空襲警報解除後も収まらず、ようやく火の手が衰えたのは午前6時すぎであったといわれています。そして、生き残った人々が目にしたものは、辺り一面の焼け野原と、河川、学校、寺院、公園などに折り重なるようにしてあった黒こげの死体でした。警視庁の調べでは、この日の犠牲者は83,793名、負傷者は40,918名となっていますが、正確な数字は今も分かっていません。いずれにしても膨大な死傷者に加え、戦災家屋268,000戸、羅災人口100万余とされる甚大な被害は、原爆による広島の被害にも匹敵する大惨事でした。◆牛沢先生の遭難昭和20年3月9日、翌日に開催される学童生徒用紙配給協議会に参加するために上京した牛沢先生は、本所区菊川町に住んでいた実弟の稲葉美春氏宅に泊まりました。そして、日付が替った3月10日0時すぎ、アメリカ軍による東京大空襲に遭遇し、業ごうか火の中で亡くなったものと思われます。九死に一生を得た義理の妹さんの話などを参考にして記された『牛沢搏美先生』(昭和33年刊行)には、次のように記されています。「(前略)・・・十時頃警戒警報そのままで空襲となり、忽たちまち月島方面の空がばっと明るくなり、間もなくB29が幾機も低空を飛び、未曽有の猛烈な爆撃が始まり・・・(中略)・・・自家用のオート三輪車を御舎弟が運転し、先生と義妹・姪にあたる娘さんと四人で一旦は錦糸堀の方向に避難したが、生あいにく憎オート三輪が故障の為家の方へ引き返し、更に菊川町より柳町に通ずる菊川橋(隅田川の支流堅川に架けられた橋で川幅二十四、五間)に到り、二間半の梯子を二つ細引で結び、橋下のピヤー上に退避された。先生も“ここなら大丈夫だ”と云っていられた。然し結局はここも安全地帯ではなく、河岸の家屋の燃え上る火明りに四面真昼の如くに明るく、折からの熱気を含んだ猛風にあおられて全く息も出来ないような状態であった。御義妹は耐えかねて“河へ入ってよいか”と二、三度聞かれたが、先生は“あわてるな、まあ待て”と制され、防空帽子に水を浸して頭にのせて火の子や熱気を防いでいられた。義妹の稲葉さんは何時の間にか夢中で河中に入り材木に縋すがりついていたが、気のついた時には、既に先生は勿論、ご主人もお子さんもその姿を見出すことが出来なかった。」東京大空襲で使われたと伝えられる焼夷弾片―19―


<< | < | > | >>