もうひとつの遭難 ~中箕輪国民学校の直江津遭難~

もうひとつの遭難 ~中箕輪国民学校の直江津遭難~ - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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第Ⅲ章牛沢先生と東京大空襲1牛沢先生について◆中箕輪国民学校長として牛沢搏うつみ美氏は、上水内郡南小川村字小根山(※現在の小川村)の稲葉郡重氏の二男として、明治26年(1893)10月5日に生まれました。明治42年(1909)に上水内郡水内村(※現在の長野市信州新町)の牛沢保吉氏の養子となり、勉学に励んで教員となり、各地の学校で教きょうべん鞭をとりました。大正13年(1924)には、当時校長だった高橋慎一郎氏に懇請されて中箕輪尋常高等小学校の訓導となり、駒ヶ岳遭難事件の後こういしょう遺症や校長空白時代を経て混乱していた中箕輪教育の再建に尽力しました。特に、創設が危ぶまれていた中箕輪通年実業補習学校について、高橋校長を補佐して開校にこぎつけ、予算が通過するまでの間は無給で担任を務めたりもしました。また、有志と上伊那哲学会を創設するなどの活動も行っていたようです。牛沢先生は、寡かもく黙にして重厚・誠実な人柄で、内に蔵するところが深く、信念を持って教育にあたったといわれています。転任後、再び各地の学校で教鞭をとった後、昭和16年(1941)春に、中箕輪国民学校長(兼中箕輪青年学校長)として着任しました。そして、着任直後の職員会で「文武両道によって忠孝仁義の善士を育てること」を教育の方針とすることを明示しました。「至しせい誠」を重視する牛沢校長は、一人ひとりの児童に教師が全人格を持って向き合うことを説き、皇国民を育成するための国民学校にあって、盲目的な服従や尊敬なき統制を批判し、表面だけではない、真の忠孝の善士の育成を目指しました。そして、学校は皇国教育の根幹をなすものであるから、可かれん憐な児童に対しても、修しゅうぶん文練れんぶ武のためには慈愛の中にも厳しさを入れなければならないと考え、実践力を持った教育を行ないました。◆牛沢先生のその後昭和18年2月に校長・教員を辞した牛沢先生でしたが、本人の言葉に「教職から去っても、教育から去るのではない。」とあるように、教育に関する意欲を失ったわけではありませんでした。辞職直後は、五児童のめいふく福を祈りつつ農業に従事していた牛沢先生でしたが、その学識や熱意を惜しむ人々の懇請を受け、「骸がいこつ骨に冥なる」というほどの決意のもと、昭和19年4月10日に信濃教育会専任幹事(兼主事)に就任しました。信濃教育会は、明治19年(1886)に、我が国教育の普及改良及びその上進を図ることを目的に設立されました。戦時中は紙類の統制が強化されて用紙の配給も不自由な時代でしたが、雑誌『信濃教育』を縮小してでも発行させるなど、熱意をもって取り組みました。そして、昭和20年3月9日に、翌日に浦和市で開催される学童生徒用紙配給協議会に出席するため、一路上京しました。牛沢先生が編集・刊行した昭和19年の『信濃教育』(上伊那教育会所蔵)『牛沢搏美先生』(昭和33年/個人所蔵)―18―


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