もうひとつの遭難 ~中箕輪国民学校の直江津遭難~

もうひとつの遭難 ~中箕輪国民学校の直江津遭難~ - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


>> P.17

赴任されてきた若い先生で、落ちこぼれが無いようにと熱のこもった勉学指導が続きました。宿題も多く出し、ちゃんと勉強しているか夜明かりがついているか家の外から確かめに見に回ったと聞きました。この時期のことが後々に随分役に立ったように思います。同じクラスで亡くなった三澤君は歌が非常にうまく大好きでした。級で一番小柄ながら、その透き通るような大きな良い声で、休み時間になると歌い出し「お、拡声器が…」と皆、耳をそば立てたものです。修学旅行の朝は4時頃の真っ暗いうちに家を出て駅まで歩きました。先生も皆も初めての海への旅行で張り切っておりました。直江津は天気は良く、手前で登った春日山はお祭りで賑わっていました。春日山から海を見たとき海岸線が波で白く見え突堤もくっきり見えました。旅館で点呼をしてから、一キロぐらい先の突堤の方に同じ年ぐらいの子供たちが見えたので(うずうずしていた)誰ともなくてうれしくて飛び出していきました。突堤には切れ目があってカニや魚が見えたようでしたが「我は海の子」を歌いながら突堤の方へと歩きました。私達は突堤の先端に近いところにいました。大波が来たときはとっさに身を伏せたので波はかぶりましたが飛ばされませんでした。立っていた者達は海に落されました。右手(荒川)を見ると顔や頭がスイカの様に沢山浮いていました。すぐ前にいた村上先生の顔からはさっと血の気が引け真っ青になったのを覚えています。突堤にいたのは一組だけだったので先生方は村上先生だけでして、口々に何か叫びながら突堤へと必死に泳いでくる友達を先生と一緒に懸命に引き上げました。突堤の脇に付いた段(補助段?)からはほとんどの子の手が届かず、自力で突堤へ上がれる者は少なかったと思います。最初は自分一人で助けようとしたがどうしても引き上げられませんでした。それでも先生と一緒に何人かは上げましたが、時折一緒に自分も海に落ちてしまうのかなと思う時がありました。皆叫びながら犬掻きで、もがきながら突堤の方に泳いできました。この時皆に「早くこっちに来い」と自分では呼んでいるつもりなのに声が出ませんでした。体育の授業で天竜川で泳いだり、自分達で西天龍用水で泳いだりしましたがこの事故で大切さを改めて知りました。海に落ちた子達は泳ぐのに必死で前にいる友達の頭をのり超えて来ようとする者もいて海の中は修羅場と化していました。今思うと体育の授業で泳ぎの練習の時、先生に言われても怖がって泳がなかった人もいたので海に落ちても泳げなかったので助からなかったのではないだろうかと後になり複雑な思いがしました。旅館に戻り点呼をして5名の友がいないと知った時のあの驚きは忘れることが出来ません。なんとか全員無事に戻って来られたんだろうと思い込んでいただけに「なんで、どうして」と言う思いで佐渡と沖に停泊する船の明かりが光る暗い海を恨めしく何時までも眺めていたことを思い出します。この事故で友達を失ってから同級生の絆はより強くなったように思います。子供ながら体験したあの事故と現場の光景は人生の縮図を見るような終生忘れることのできない出来事でした。あの悼しい事故から今年は73年、当たり前の事ながら其の後も多くの同級生との別れを経て80代の半ばに達した今、改めて亡き友の霊の冥福を祈ると共に生きることの意味合いを確かめながら、今日の元気に感謝しつつ明日を迎えたいと思うものです。●当時6年1組で、大波にさらわれたが救助されたLさん(男性)修学旅行の前日は寝ることができないぐらいうれしかった。当日は薄曇りで、何日か前には台風もあったようだった。春日山からは白波が白く見えてすごいなあと思いました。旅館で上着を脱いで突堤には靴を脱いで行きました。突堤には元気な子供たちが先の方に行って、そこで割れ目にカニを見つけて一塊になっていました。私は陸に近い方にいました。「波が来るぞう」と言った人がいましたが、私は大波でセメントの上を裸足だった足がズズズと引きずられた感じになり、そして海に落ちました。海の中は真っ黒でした。学校で天竜川で泳ぎの練習をしたときに泳げたので、泳いで突堤の岩のところまで来て岩に乗り助けを呼びました。この時すごくズボンが重かったなあと記憶に強く残っています。7時頃各班で人数確認をしたら5人いませんでした。先生から説明があり「いろいろなことがあったが心配しないで寝なさい」と言われました。海に落ちた人達は2階に呼ばれたと思います。学校に帰り、次の日普通授業で遺体が見つかったなどの連絡やうわさが入ってきました。村葬の時は皆メソメソしていました。毎月亡くなった方の家に行き、お経をあげました。命日には同級生で行事を行なってきました。●当時6年4組で遭難を目撃したMさん(女性)私は当時4組で滝沢先生のクラスでした。4組と5組は女性ばかりのクラスでした。滝沢先生は若く、師範学校を出たばかりのひょうきんでおもしろい先生でした。村上先生は詰つめえり襟の制服を着ていました。当日は家から駅まで遠かったので当時父が勤めていた農協に泊まらせてもらい、そこから駅に行きました。直江津は前日に台風があったのか曇っていました。旅館について嬉しさの余り一組の男子は飛び出して行きました。私たち四組は突堤の半分までは行っていなかったと思います。波が高かったけれど突堤を超えるような波はありませんでした。「落ちたぞ」と言う大きな声で見ると皆浮いていました。救助のことはあまりわかりませんが、バンドを投げたので捕まって上がったというのは聞きました。その後点呼して五人いないことがわかり、宿に入れられても恐ろしくて波の音がすごくて眠れませんでした。松島駅に戻ると大勢の人が心配して集まっていたのでびっくりしました。親も来ていてくれたと思います。次の日遺体が見つかったと言われました。亡くなった三澤君は当時とてもひょうきんで面白い子だったのを記憶しています。村葬には偉い人達が話をしたのを覚えています。校長先生が言った言葉で「日本は小さい国で周りは海ばかりなのに海を知らないと言うことはいけない、これから海外へも行かなくてはいけないから海に行くように。」と言ってたのを覚えています。この事故は忘れられない出来事です。毎年九月になり秋風が吹くと「ああ直江津の頃だなあ」と思います。―17―


<< | < | > | >>