もうひとつの遭難 ~中箕輪国民学校の直江津遭難~

もうひとつの遭難 ~中箕輪国民学校の直江津遭難~ - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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も小学校の子供たちが供養していてくれることはありがたいと思います。●つたや旅館の家族Iさん(女性)私は当時一つ年上の女学校1年生でした。当時春秋ずっと修学旅行の受け入れをしていて、伊那から、鬼無里から150人くらい来ていました。他の季節は旅館として座敷をふすまで仕切りやっていました。旅館の前は今は道路がありますが、当時はすぐ浜で海でした。現在の突堤は当時の突堤と同じ場所にあり、旅館の場所も同じ場所です。当時5軒くらいの旅館がありましたが、他に移ったりやめたりして、明治からやっていたつたや旅館も平成17年にやめました。当日の天気は雨は降っていなかったが天気は良くありませんでした。海は波が高くうねりがあり、波が荒れていて、旅館の誰かが「今日は波が荒いからそのままいて」と言って、先生も「明日なら波が静まるから連れてってやるから」と言ったが、子供たちが海の方に行ってしまったので2回注意して、その後先生は2階に上がって行って一休みしてる間に子供達が一人二人と海へ飛んで行って、その後その子ども達の後を皆がついて海に行ってしまったと父に聞きました。遭難のことは私は学校に行っていたので帰って来てから知りました。帰って来ると道や旅館はごたごたしていました。海に落ちた子供たちを、今は関川を広げたから町が無くなりましたが、当時そこに住んでいて釣りをしていた洋服屋の柴さんが助けてくれました。柴さんが最後に救助した城倉さんがお守りを持っていたと聞きました。遭難したその夜に19歳くらいの若い先生は、お父さんかお母さんに電話をかけて泣いていたと言っていました。先生が一番悲しそうで、若かったので気の毒だったとも言っていました。生徒さんがまだ見つからなかったので、泣いていてご飯も食べられなかったと言っていたのを覚えています。その日の夕方か、お寺でお経をあげて何かをしたらしいです。行方不明者の捜索は、町内会の人達が毎日海岸へ出て浜辺に遺体が上がっていないかと遠くまで歩いて捜索して、1週間くらい見て回っていました。次の日のことは私は普通に学校に行ってしまったのでわからないです。その後1年で遺族の方は来なくなりました。戦争になれば来られないしね。後に家族でなくても、同級会の時に寄って海にお参りしていった方や、遺族の方たちが泊まってお参りなさっていった事もありました。その方たちから家族が亡くなったことなどを聞きました。●当時6年1組で、大波にさらわれたが救助されたJさん(男性)私は当時1組で担任は村上先生でした。9月13日の朝、雨が降っていたので今の八十二銀行(昔の役場があったところ)までぞうりばきで行き、南側の道路で運動靴にはきかえました。胸ポケットに内緒で選別にもらった一円札を忍ばせて行きました。直江津は良い天気で、春日山山頂に登った時、波が左側から防波堤まで白く見えて、それがまるで石灰を撒いたかのように真白く見えました。つたや旅館でズボンも上着も着たまま海側に先生と皆で並んで誰が海まで一位になるかと砂の中を飛んで行きました。突堤は波が超えてくることは無かったが、波が浸みてくる程度でした。突堤の真ん中ぐらいで大きなカニが突堤の割れ目にいて、カニを捕まえようと皆で「削ってない長い鉛筆をもっているやつは誰か出せ」などと言いながらカニ取りに夢中になっていたところに大きな波が来て飛ばされました。この時波の上に背中が乗り、まるで波の上をすうっと運ばれたかのように波に乗り、その後荒川に落ちた事は、はっきり覚えています。気が付くと犬かきで必死に突堤に向かって泳いでいました。しかし突堤が高くて届かず、岩に捕まっていたが波が来て離れてしまい、それを二回ほど繰り返していたときに後ろに人がいましたが誰だかわからなかった。ようやく岩の上に登り「お母さん、お母さん」と言っていたら二人来て足と手を持って突堤に引き上げてくれました。引き上げられてから旅館のところに行き、大隊を組んで並んで人数確認をして番号を言っていったところ、そこで五人足らないことがわかりました。そのことを知り皆は六年だったので騒ぐなどのパニックにはなりませんでした。唐沢生一君が並んだ時一緒にいて、濡れた服を見て自分の上着を脱いで「上着を着るといい」とかけてくれました。旅館に入り旅館の真ん中にあった電話のところに落ちた人は集まれと言われて、学校経由で電話をしてくれました。松島駅に帰ってくると皆が出迎えていてくれて、自分と近所の子も落ちたと聞いた親父が本家の牛車を借りて迎えに来てくれていたのがうれしかった。家に帰り胸ポケットに入れてあった一円札はそのままあったので、このおかげでと思い仏様にしんぜましたがその後どこかにいってしまい今はありません。校長先生はえらいことになったと、早く5人を探さなくてはという感じでした。村葬は5人の位牌を並べて体育館でやったと思います。そこで3組の女性の人達は浜の方にいたので突堤に大波が来たことに気づかず、荒川に浮かんでいる皆を見て「男の子達はもう荒川で水泳しているわ」と思っていたと言っていた人がいるのを聞きました。その後村上先生が学校をやめたというとき上古田の子供たち3人で村上先生の家に行こうと3人で行きました。先生は変わらず受け入れてくれ、広い家の中で遊んで家族の人もお茶を入れてくれました。後に村上先生は上諏訪の警察官でいたときに5人の命を救うために警察官になって探すと言っていたことを聞きました。当時修学旅行はとても楽しみでした。割れ目から潮が吹きだしたりしておもしろかった、今となっては怖いことがなかったらもっと先に行っていたと思う、たまたまその場所だった。●当時6年1組で、波に遭ったが落ちなかったKさん(男性)当時の先生は村上甲子男先生、メガネをかけていて背が高く色白の先生でした。伊那中(現伊那北高校)を出て間もなく―16―


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