もうひとつの遭難 ~中箕輪国民学校の直江津遭難~

もうひとつの遭難 ~中箕輪国民学校の直江津遭難~ - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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帰って来た夜聞きました。全校集会で説明があったが、先生の様子は覚えていません。村葬はしたと思うが覚えていません。村上先生がやめたという記憶はあります。牛沢校長先生は厳しい人で気軽に声をかけられなかった。何百人の前で講話したのを覚えています。この事故により同級生達が団結したと思う。●遭難で亡くなった児童の家族Eさん(男性)当時兄は兄弟6人の中で自分のすぐ上の兄だった。私は当時小学校2年生で、兄は修学旅行を楽しみにしていたようでした。当日同級生がおにぎりを持ってきて、それを一緒に食べて行きました。蚕の秋蚕の上簇の日で家中忙しく、小学校2年生で当時1時間学校から「おひま」をもらって手伝っていた。仕事が落ち着いた頃の夜に遭難の連絡がありました。その都度、山崎先生が捜索状況を聞かせてくれました。夜のうちに協議して朝に着くように父は現地に行き、その後母も2陣で現地に行きました。母は現地で遺体を火葬して骨になったのを見たときに、旅行のために買ってやりたいと買った靴の跡が残っていたのを目にしたとき悲しかったと言っていました。現地に行った父は海が荒れていたと言っていました。遺骨は辰野の駅から松島まで臨時列車で持ってきました。その時に箕輪の人全員というぐらいの人が両側に並び、国道よりも長くすごい人たちが出迎えてくれました。村葬は三沢さんはわからないが一緒にやったと思います。牛沢校長は19歳の村上先生の将来を心配して、処分の前に依願退職をさせた。先生の村上先生に対する心配りだと後に聞きました。校長先生という人は、一の宮の学校林畑にはっぴを着て股引姿で2時間先頭に立って肥しを担いで畑仕事をしていたり、とてもてきぱきと難しい書類の手続きもしていた先生でした。この遭難と駒ヶ岳の遭難と中箕輪は2つもの遭難があり、「2つも遭難がある村へは娘を嫁にはやれない」ということも言われました。そんな中、同級生がみんな前を向いて遺族と共に一緒になってがんばるぞと支えてくれました。●当時6年1組で、波に遭ったが落ちなかったFさん(男性)当時担任の先生の村上先生は若い先生で、友達の様な先生でした。海に行くのは初めてでうれしかった。行くのに朝電車に乗るので、亡くなった三沢君は「駅まで行くのに乗り遅れるから」と言って、白い鼻緒の下駄を脱いで持って駅まで走って行ったのを覚えています。当日の現地は雨が降っていなかったと思う。春日山にのぼって、大きな船や海が見えたときはうれしくて大騒ぎでした。春日山からつたや旅館迄みんなも村上先生もうれしくて走って行きました。リュックを旅館に放り投げて置き、浜辺を歩いて突堤に行きました。先に行っていた3,4組がまだ突堤にいて、突堤が二段になっていて船の着く平らなところまで行って、カニがいたので面白がって見ていました。皆は突堤の先の方まで行っていましたが、私は怖くて先の方までは行きませんでした。つたや旅館のおじさんは「海にやたら行ってはだめだぞ」と言っていました。私は突堤の真ん中ぐらいにいて、波が来たときに3人ぐらいで抱き合っていたので助かりました。そこで2回目の波が腰のあたりまできて、砂をたたきつけられたかのように当たりしびれました。もうそこには怖くていられませんでした。気が付くと皆海の中に浮いていて、持っていた手ぬぐいやベルトに捕まれと言って引き揚げていました。突堤に登れそうな人も波に引き返されて助けるのが出来なかったのを見て切なかったです。船を出して助ける人もいる中で、城倉さんが一番最後に助けられました。つたや旅館に戻ったときはまだ外が明るく、その夜天候が荒れていたので風の音が強くて怖くて眠れなかった。その後亡くなった人の親がつたや旅館に来ました。帰ってきたら山崎先生に「言うことを聞かなかったからだ」と怒られました。3,4組は手前にいたから。●遭難で亡くなった児童の家族Gさん(男性)と、その妻のHさん(当時6年5組)(G)当時私は高2で、弟とは5つ違いの兄弟でした。私も修学旅行は海に行きました。中箕輪の常宿はつたや旅館でした。弟は修学旅行の当日の朝すごく喜んでいて、近所の友達を呼びに回ってから行っていました。(H)学校が飴を10個ずつくれて、それを妹に取られたと母は言っていました。(G)遭難した知らせは山崎先生が来て知らせてくれました。(H)先生にも子供がいたので遭難したことを言い出せずにいたと母は言っていました。(G)この時父は山崎先生に「どうしてくれるんだ」と言ったようです。当時蚕を量産していて、夕方仕事が上がる時に知らせが来たので、すぐ13日に両親が直江津に行きました。かわいそうでした。(H)5組だった私の家では、遭難した夜自宅で町の中を一晩中下駄の音がしていて何かあったのではないかと家族で言っていました。遭難した日は13日の春日山のお祭りで、海の船頭さんが誰もいなかった為に救助できなかったみたいです。(G)救助するときに土屋先生が一人で泳いで助けていたが、一人助けている間に「先生、先生」と他の子供が言っていたが助けてやれなかった。(G)弟は突堤の左側に落ちて、落ちた時に眉間に傷をつけていたらしく底に沈んでいたらしい。(H)母が直江津に遺体を引き取りに行った際、遺体の様子を心配していたが、直江津の方は仏様を大事にしてくれるので遺体をきれいにしてくれてあり良かった、きれいにしてくれたからあきらめなきゃという気持ちになったと言っていました。(G)汽車の車両を借り切って辰野から帰ってきました。次の日は授業にならず、それから修学旅行は海に行かなくなりました。その後学校では、お昼にはお昼当番の子以外の子はお経をあげていました。弟は修学旅行を楽しみにしていて、うれしくて行ったのに遭難してしまいショックでした。(H)子供をもってみて当時の親の気持ちは複雑だったと思います。今―15―


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