もうひとつの遭難 ~中箕輪国民学校の直江津遭難~

もうひとつの遭難 ~中箕輪国民学校の直江津遭難~ - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


>> P.14

体験者・目撃者の記憶~聞き取り調査より~楽しみにしていた修学旅行、そして悪夢の大波。遭難事件を体験・目撃された皆さんに、昭和17年当時の記憶を思い起こしながら語っていただだいた内容を紹介します。●当時6年1組で、大波にさらわれたが救助されたAさん(男性)当日は曇っていて、修学旅行に行くのに貧しくて行くことに反対していた親もいた中、学校でくれたかわからないが、当時貴重だった飴を5つ配ってくれました。春日山駅から歩いて行き、海は風も波も多少荒かった。水族館に行ったことは覚えている。1組だから一番先に行こうという気持ちで小さい順に並んで行き、つたや旅館で近くに海が見えたので、先生も歓声をあげながら海を見ていました。防波堤には小さい順に並んで行き、割れ目があって、そこいたカニを見ていたとき、「大きな波が来た」と言っていたみたいだが、聞こえず波にさらわれて沈む感覚がありました。前にいた背の小さいグループの三沢君、平松君と一緒に飛ばされて渦に入って沈む感覚がありました。犬かきで防波堤まで泳いで行き、手ぬぐいを下ろしてもらったが、それが切れて腰につけていたバンドで引き上げてもらい、その後聞いたのには体を逆さにして振りたくったと言われた。俺は遠くに飛ばされたから生き残ったのかもしれない、他の人は波が来て落ちる所には石が積んであったからそれに当たって死んだのかもしれない。突然のことで苦しさはわからなかった。その晩旅館でも波の音が怖くて一晩中眠れませんでした。「三回海に落ちた、落ちたけれど助かって帰ってくる」と連絡をもらった母はびっくりしたと言っていた。他の地区は海に修学旅行に行くことは無かった、中箕輪の遭難で他の町の修学旅行も自粛した。あの時の事を今でもずっと夢に見たり、思い出すことがある。●当時6年1組で、大波にさらわれたが救助されたBさん(男性)中箕輪国民学校に入るときは、奉安殿の天皇の写真に一礼して入った。西分教場に通っていたので、祝日になると中箕輪に来て、モーニングを着た校長先生が読む教育勅語を聞いた。修学旅行に行く前にグランドにて班の練習をした時に、きちんと練習していない子に村上先生が「遭難してしまうじゃないか」と怒った。当日は雨が降っていて松島駅に直接集合だったので、駅まで傘を持っていたので歩いて行った。小野君が同じ班で隣を歩いていました。お金も無い家もあったが、蚕を育てていて忙しかった親は反対もせず修学旅行に行かせてくれました。旅館に着いてから海に行きました。上着をぬいじゃいけないと先生が言ったが、生徒たちは脱いで海に喜んで行きました。防波堤が揺れるような波が来ていて、落ちた時には気づかず、気がついたら海の中だった。水泳は出来たから岩をつかもうとしたが、岩がつるつかまった子がいたが、共に沈むと思い手を離して泳いつるで波が来て連れ去られてしまった。そのとき2人くらい足に摑で上がって来ました。そして防波堤にすぐ手がかかったので村上先生が引き上げてくれました。2番目に引き上げられたので早かった。その後すぐにつたや旅館に連れて行かれて二階に寝かされました。足のひざ下とあごのところを怪我をして、次の朝地元の個人病院に行くというので、次の日柴さんと3,4人で歩いて行った。箕輪に帰ってくると、迎えに来ていた父を見て涙が出ました。学校の生徒たちが並んで出迎えてくれました。校長先生は最後まで三沢君は見つからなかったと言っていました。先生たちが家庭全戸に慰問に来ました。●当時6年2組(第一班)のCさん(男性)担任の先生は市川先生だった。土屋先生は31歳で学年主任。村上先生、滝沢先生は19歳。一クラスには50人以上いて、5年生から男女に分かれました。分校が一緒になって5クラスになり、クラス替えをした。当時中部小北にあった講堂に1500人の子供たちがいて、高等科もあったからすごい人だった。講堂に子供たちを座らせて、校長先生は名簿を持って孔子の孝経、修身や歴代の天皇の名前を暗唱させた。学校にプールも無い、水泳の力も無い時代、海も見たことが無かったり、汽車に乗るのもめずらしく、修学旅行に行くことがうれしかった。当日小雨模様で出発して、どこの駅だったかわからないがスイッチバックのある駅の辺りで2班の乗っている汽車とすれ違った後、つたや旅館に4時過ぎに着いた。現地は雨っぽかった。海は2,3mの波があり、パンツ1つで突堤の右側の砂浜に行き、浜を行ったり来たりしたので海の水で濡れたりした。その後旅館で服も湿った為パンツを干して脚絆をパンツ代わりにして巻いた。突堤は岩で出来ていて、高さが2〜3mで幅が5mぐらいで長さが200〜300mぐらいあった。その突堤の先へ行き、そこで「信濃の国」を歌った。遭難のことは家に帰って来て金星(お菓子屋さん)に電話があり、2班が遭難したことを聞いた。村上先生はやめたという記憶はあるが他はわからない。同学年生の大事な人たちが事故に遭い、同学年生の知らなかった人たちが男女関係なく慰霊を通してより皆との繋がりが強くなったと思う。●当時6年5組(第一班)のDさん(女性)当時6年5組は山崎先生でした。そんなに若くもなく40〜50歳くらいに見えました。5組は前日に行ったクラスで良く覚えていないが、海を見るのが初めてで楽しみにしていました。当日は雨が降っていなかった。水族館に行ったのは覚えています。突堤に行ったが波は高くなかったし、突堤に行ってはいけないとも言われなかった。遭難したことは―14―


<< | < | > | >>