もうひとつの遭難 ~中箕輪国民学校の直江津遭難~

もうひとつの遭難 ~中箕輪国民学校の直江津遭難~ - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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◆村上先生のその後昭和18年1月19日、①海の研究不十分②直江津を知らなかった③土屋先生・滝沢先生の注意をきかなかった、以上三つの理由により、村上先生は国民学校令による教師としての過失致死罪に問われ、禁固六ヶ月(※四ヶ月という説もある)、執行猶予二年の判決を受けました。これに対し、上じょうそ訴するかどうかで様々な意見があり、校長先生も「我々は村上君の罪を軽くしてやり度い願であり、又我々としての態度でありますが、遭難父兄を察した時、村上君が禁固四ヶ月位受けたって軽い事だといふ事があるから、自分としては上訴するかしないか決し兼ねるのであります。」(『牛沢搏美先生』)と大変迷ったようです。しかし、「天が選んだ試練と思ひ、本当の人物になる様精進してほしいのです。引率の態度は立派であったが、法は無視出来ずに罪になったのだから、大きく考えてほしい。」(『牛沢搏美先生』)とあるように、上訴せずに刑を受けることになったものと思われます。6年1組の担任であった村上甲かお子男先生は、昭和17年3月に伊那中(※現在の伊那北高校)を卒業し、中箕輪国民学校に代用教員として奉職しました。当時は満17歳又は18歳(※現在の高校3年)であったと思われます。戦争の激化によって、多くの成人男性が赤紙一枚で戦地に向かわざるを得なかった時代、不足する労働力を補うために女性や子供も動員されていた中、学校現場においても、こうした若者を多く代用教員として採用していたものと思われます。実刑判決を受けた村上先生は、学校退職後は満州に渡り、満鉄(※南満州鉄道株式会社)に入社しました。満鉄では我が身を顧みず献身的に働き、昭和19年の徴兵検査では満鉄一番で幹部候補生に推薦されたとのことですが、禁固が知れて失格となってしまったそうです。また、終戦・帰国後は長野県の警察官になり、ここでも亡くなった子どもの分までと献身的に働いたそうですが、禁固のことが知れて昇進話が取り消されるようなこともあったようです。そして、ある事件で迷惑をかけないようにと退職し、以後は身を隠すようにして暮らしたとのことです。若き日の直江津遭難事件に大きく翻ほんろう弄された一生であったのかもしれません。し◆牛沢校長の辞職村葬直後には自らの進退について語っていなかった牛沢校長ですが、事件直後の9月19日には、すでに自身の進退伺を文部大臣及び県知事に提出していました(※これは譴責処分に留まった)。そして、裁判の判決が出た後に、5人の児童が亡くなった責任をとるために依いがん願退たいしょく職し(※国・県からの退職辞令は1月30日付)、校長及び教員を辞しました。そして、2月5日のお別れの式で別れを告げ、15日には理想の教育実現に情熱を注いだ箕輪の地を後にしました。この日、初等科の児童は校門前で見送り、高等科以上の生徒及び主任職員は駅まで見送りました。伊那松島駅前で挨拶があり、午前10時頃の電車で中箕輪を去りました。人に何を言われても理想の教育実現のために邁まいしん進していた校長先生の辞任は、大切な児童の命を守れなかった責任と、前途ある青年に傷をつけてしまった自責の念によるものと思われます。『直江津遭難一周忌法要諸記録』(昭和18年/箕輪中部小学校所蔵)『直江津遭難碑設立記録簿』(昭和29年/箕輪中部小学校所蔵)搏美六人力会の記念誌(昭和49年/箕輪町図書館所蔵)『直江津遭難三周忌法要諸記録』(昭和19年/箕輪中部小学校所蔵)―12―


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