もうひとつの遭難 ~中箕輪国民学校の直江津遭難~

もうひとつの遭難 ~中箕輪国民学校の直江津遭難~ - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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◆悲報学校へ届く直江津署や水上警察署では船を出して捜索を行いましたが、波は高く、夜になって視界も効かなくなったため、一旦捜索を中止しました(※読売報知の記事では午後6時に一旦捜索打ち切りとある)。直江津の突堤で26名が遭難。このうち21名を救助したものの、5名が行方不明という悲しい知らせは、午後6~7時頃に学校へ伝えられました(第一報)。知らせを受けた学校では、全職員を召集し、遭難児童の家庭へは、電話がある家へは電話で、無い家へは職員が直接出向いて知らせました。また、役場などの関係機関にも連絡し、村長が不在であったため助役が来校しました。遭難児童の父兄も学校に集まり始め、善後策を協議した結果、午後8時42分伊那松島駅発の電車で、牛沢校長と3人の先生、遭難児童の遺族の方5名と役場職員1名が現地直江津へ向いました。この時の様子を、行方不明となった児童の一人である泉澤利典君のお父さん、泉澤近次郎氏は、その手記(『利典遭難記』)に次のように記しています。「学校に電話来る午後六時頃。一組生徒遭難、五名行方不明との知らせ。学校より使い来る(山崎章吾先生)、利典遭難行方不明につき申し訳なし、学校に来たり善後策につき同道との事、即時本家の兄と共に学校に行き校長先生に面会、ほか四名も来る、只只申し訳ありませんとばかり。種々打ち合わせの上、即時父兄も共々直江津の遭難現場に出掛ける事として、学校より校長先生ほか六名、役場より一人(倉田書記)、遺族五名。松島駅を午後八時三十五分発にて出発する事。」なお、牛沢校長は途中の長野駅で一度下車し、県庁へ報告した後、一便遅れて直江津へ到着しました。『校務日誌』(昭和17年度/箕輪中部小学校所蔵)弔詞写など(箕輪中部小学校所蔵)『直江津遭難諸記録並法要綴』(昭和17年/箕輪中部小学校所蔵)『直江津遭難の記』(昭和29年)◆行方不明者の捜索前日の夜に直江津へ向った遺族・先生等の一行は、14日午前4時すぎに直江津駅に到着しました。そして、つたや旅館で朝食をとった後、遭難現場の突堤へ行き、遭難時の様子を聞きました。その後、水上警察署で船(モーターボート)を出して海上の捜索を行うと共に、地元直江津町の人々も協力して、遺族等と共に海岸を捜索しました。一方学校では、第一時に下平伊那彦教頭から、修学旅行隊第二班が直江津の防波堤で大波に遭い、26名が海に落ち、21名は救助されたものの5名が溺死したことが(※この段階では正式には行方不明だが報告では溺死となっている)全校生徒に伝えられました。また、午後2時からは、村会の学務委員協議会が開かれ、学校からは下平教頭らが出席し、事件の状況報告と今後の対応等に関する話し合いが行われました。そして、村長や関係する区の議員は、午後3時40分発の電車で直江津へ向いました。現地での捜索の様子は、泉澤近次郎氏(亡くなった泉澤利典君のお父さん)の手記に記されています。それによると、14日の直江津は、午前中は晴れていたものの、午後2時頃から風が強くなり、雨も降り出して海上は大波となりました。船での捜索は午後6時過ぎまで行われましたが、行方不明者を見つけることは出来ませんでした。夜に入り、雨は小雨になったものの、風は強く波が高かったため、皆無言で打ちしおれていました。午後8時すぎ(※正式には8時22分)、近くの海岸で大声が上ったため見に行くと、一人の遺体がありました。それは松島(小野村出身)の小野茂雄君でした。簡単な検死の後、遺体は近くの聴ちょうしんじ信寺に運ばれ、納棺されました。遺体発見の連絡は、午後9時15分頃に学校へなされました。そして、翌日荼だ毘にふす旨などが伝えられました。び―7―


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