もうひとつの遭難 ~中箕輪国民学校の直江津遭難~

もうひとつの遭難 ~中箕輪国民学校の直江津遭難~ - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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◆中箕輪教育の再建これより前、中箕輪尋常高等小学校では、明治44年(1911)から高等科二年生(有志)の修学旅行として駒ヶ岳登山を行っていましたが、大正2年(1913)年8月には、死者11名という痛ましい遭難事件が発生しました(※駒ヶ岳遭難事件)。また、この頃大正自由主義教育が盛んになる中で、大正9年(1920)10月から二年半にわたって校長が不在となる教育空白時代が生じるなど、中箕輪の教育は混乱しました。こうした中、中箕輪の教育を再建するため、大正12年(1923)3月に高たかはし橋慎しんいちろう一郎氏が校長として着任しました。高橋校長は、青年教育に重点を置き、また実践力に富んだ幅広い教育方針を推進して、当時の教育界に重きをなしました。後に校長となる牛うしざわ沢搏うつみ美氏も、高橋校長に懇こんせい請されて32歳の時に訓くんどう導として着任し、中箕輪教育再建の中堅として活躍しました。高橋校長は、大正2年以降中断していた駒ヶ岳登山を、13回忌となる大正14年(1925)に復活し、以後は継続して行われるようになりました。◆戦時体制の強化と国民学校の成立大正期の好景気も、昭和4年(1929)に始まった世せかい界恐きょうこう慌の影響によって大不況となり、昭和6年(1931)の満州事変、昭和12年(1937)の日中戦争の勃発などによって、教育においても戦時色が濃厚になっていきました。こうした影響は各所に見られ、例えば、大正15年(1926)に軍事教育の教練のために開設された青年訓練所は、昭和10年(1935)には新たに青年学校となって各村に設置されました。そして昭和14年(1939)の改正により、病気の人以外は公立か私立の青年学校に籍を置くことが義務化されました。また、教科書は、明治36年(1903)には国定教科書となっていましたが、満州事変等を経て、戦争を勝ち抜く国民の育成を目指した超国家主義的な内容へと変わっていきました。長く続く戦争の影響は、学校の位置付けさえ変えることになりました。昭和16年(1941)3月には「国民学校令」が公布され、明治以来の歴史をもった小学校の名称が廃止されて国民学校となり、皇国民を育成するための教育が行われるようになりました。子どもたちは将来の戦争の担い手とされ、学校では軍国主義教育が推し進められ、授業よりも儀式や団体訓練が重視されるようになっていきました。中箕輪国民学校の昭和17年の校務日誌をみると、全校遠足、各種儀式や戦死者の村そんそう葬、各種訓練、勤労奉仕、青年学校の野営演習や実弾射撃などが頻ひんぱん繁に行われており、戦争の影響を大きく受けていたことがわかります。なお、尋常科六年生の修学旅行は、国民学校に変わった昭和16年には実施されませんでしたが、昭和17年には再び実施されました。当時の学生服(夏服)国民学校の教科書(修身/昭和17年)青年学校の教科書(昭和15年)当時の学生ズボン机と椅子―2―


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