もうひとつの遭難 ~中箕輪国民学校の直江津遭難~

もうひとつの遭難 ~中箕輪国民学校の直江津遭難~ - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


>> P.1

第Ⅰ章直江津修学旅行の背景1修学旅行の始まりと目的◆修学旅行の起源日本の近代教育は、明治5年(1872)の「学がくせい制」に始まりました(※これにより現箕輪町内の各村にも小学校がつくられた)。明治政府は、天皇を中心とした中央集権国家を目指し、産業を盛んにして強い軍隊をつくる富ふこく国強きょうへい兵政策に力を入れたため、明治以降の教育は、こうした国の考えを受けて進められました。初代文部大臣森もり有ありのり礼は、明治18年(1885)の「森文相教育上奏文案」の中で、将来の勇敢な軍人を育てるために兵へいしき式たいそう操の採用を主張しています。また、明治19年(1886)2月には、修学旅行の嚆こうし矢といわれる東京師しはん範学校体の長途遠足が行われましたが、その主旨は、「一は兵式操そうれん練を演習せしめ、一は実地に就ついて学術を研究せしむるの目的に出つ」というものでした。こうした中、文部省は、明治21年(1888)8月の『尋じんじょう常師しはん範学校設備準則』の中で修学旅行の定義を示し、この時、修学旅行の名称が法制化されました。◆明治時代の修学旅行修学旅行の教育的価値を認めた文部省は、明治25年(1892)の文部大臣訓令で、「夏季休業及び期末休業など、なるべく適当の時期を選び、教員をして生徒を率いて修学旅行をなさしめ、山川郊こうや野を踏とうは破して、その身体及び精神の鍛たんれん錬するとともに、知見を広めんことを務むべし」と示し、山野を歩いて心身の鍛錬をすると共に、実地見学による知見の拡大を目的とした修学旅行を奨励しました。この頃、上伊那高等小学校伊い那とみ分校では、百聞は一見に如しかずと富の理論を根拠として、二日間の諏訪地方一周旅行を実施しています。こうした中、明治31年(1898)には長途修学旅行への批判が出はじめ、明治34年(1901)には、文部省令で兵式体操が体操科の中に位置づけられたため、必然的に修学旅行と分離されました。こうして、兵式体操と分離された修学旅行ですが、鍛錬の場としての修学旅行はその後も継続されました。(町有形文化財旧三日町公民館)いくち「学制」により、三日町村の育穉学校となった建物な2戦時体制の強化と修学旅行◆大正期の修学旅行明治末期から、資本主義経済の発展に伴って新しい中産階級やサラリーマンが増え、学校で学ぶ児童・生徒も増えていきました。また、大正デモクラシーの風潮の中で、子どもの個性を自由にのばすことを目指す、新しい教育が試みられるようになりました。しかし一方で、日清戦争・日露戦争に勝利した日本では、国家主義的な風潮が高まり、修学旅行にも敬けいしん神思想や国防意識(海洋意識)が大きく反映するようになりました。こうした中、中箕輪尋常高等小学校では、大正7年(1918)に高等科二年生が伊勢方面へ、大正8年(1919)に尋常科六年生が直江津方面への修学旅行を実施しました。以後、目的地の変更や中断もたびたびあったようですが、大きな流れとしては、尋常科六年生(現在の小学六年生)が直江津方面へ、高等科二年生(現在の中学二年生)が伊勢・関西方面へ修学旅行に行くことが多かったようです。―1―


<< | < | > | >>