満州開拓 富貴原郷開拓団の記憶

満州開拓-富貴原郷開拓団の記憶 - 箕輪町郷土博物館開館40周年記念冊子 - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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いたが、母は「もういいよ、死ぬ時は死ぬんだから」と言って弾から私と妹を引きよせかばった。今度の弾で死ぬのかな、今度はダメかな、と思って長い時間そうしていた。まるで私達だけをねらってうっている様な気がした。明るくなって何人かの犠牲者が戸板に乗せられ帰って来た。その中に知野先生も居た。昨日まで元気だったのに・・・涙がどかどか流れた。(白鳥富美子氏)手記からは、そうした苦難の中で、何とか我が子の命を守ろうとする母の姿や、家族をいたわる温かい気持ちが伝わってきます。そんな日が続く中、私は女の子を生んだ。今考えるとよくもまあ気ちがいにもならず、病人にもならず、何人かの胎児を駄目にした中、私だけは主人と話し合って、とにかく最悪の場合は団の人達に迷惑がかかる様な事があってはいけないし、お互い生きる為には、笑うようになった可愛い子供を紙くず同然に捨てられるかと、さんざん悩み苦しんだ末、主人と保科さんとに力になって頂き生む事にした。お母さんは撃つなら私を撃って下さいと立ち上がった時は、ああどんな時どんなになっても母なればこそと思い、私も強くならねばと思ったのに・・・。(唐沢孝子氏)母は私は足が痛いから置いて行ってくれと言うのを、父は赤ん坊をあやす様に、頼むからおぶさってくれと言った。この時父ってこんなにやさしい人なんだなと初めて知った気がした。ひそひそと話す声に目が覚めた。父が帰って来たのだ。「お父さん良かったね」、私は声がつまった。団の偉い人達はつぎつぎにソ連兵に連れて行かれてしまったと聞いていたから本当に嬉しかった。父は「富美子、お母さんや麗子をつれて逃げてくれたんだってな、ありがとう」と言って抱き寄せてくれたが、「息が出来ないよ」と言って皆で笑った。幸せだなあと感じた。(白鳥富美子氏)着る物も食べる物も無く、寒さが日ごとに厳しくなる中、多くの人たちが飢えと病により命を落としていきました。特に、小さな子供やお年寄りの方たちは、真っ先に犠牲になってしまいました。手記には、そうした様子も詳しく記されています。乳飲み子は一番先に駄目になる。四・五歳の子供を持つ親は子供に食糧をせぶられ、親が先に駄目になる惨めさ、言葉に表せない。まさに生き地獄であり、悲惨な生活を余儀なくさせられ、食糧難と厳寒に耐えられず、内地帰りを夢に見ながら異国の地で死んでいく同志を、どうする事も出来ず呆然と見守るばかりでした。(松沢政文氏)山口清勝さんのおばさんも「うまいものを食べたいものだ」と伊那節をうたって、すぐに亡くなってしまいました。本当に哀れに思いました。(植田正子氏)三月に入ってようやく春も近づいた頃に、ずっと悪かった胃腸がついに快くなれず、晃も三月二十八日に弟達の後を追って逝ってしまいました。この子は五才まで内地の本家で暮らしていたので、家中で心配して待っていてくれるので、どうか良くなって一緒に連れて帰りたいと念ったのに、とても残念で悲しく思いました。(浦野しげみ氏)たった一人の頼りにしていた吾が子も、僅か四・五時間の間に失ってしまいました。夢中で叫ぶ母の声にポカッと目を開いてくれた。しかしこれも救う事も出来ず、私の手から去って行ってしまいました。悲しかった。私は本当に忘れる事が出来ません。(岡石子氏)そして、大切な人を失ってしまった人の中には、自責の念から、現地に残留を決意する人もいました。こうした二人を亡くしてしまった私には責任感が思われた。それはお姑さんに対して、たった一人の娘を、戦争とはいえ何の手当ても出来ず、これが私にはたまらなかった。二人を亡くした。私はそれ以来二人の吾が子と妹と共に大陸に生きて、末は共に大陸に眠ろうと心に誓いました。(岡石子氏)田中はつ子さん、一人満州に残って頑張ってね・・・。私も骨を埋めるつもりで渡満した筈なのに・・・御免なさい。どうぞしっかりしっかり身体に気をつけて、長生きして下さいね。(桐原しなの氏)一方、終戦後シベリヤに抑留された人たちも、塗炭雄の苦しみを受けていました。死んで行った戦友の一人が言った事に、内地に帰ったらヨウカンやお菓子を腹一杯食べさせてくれよ、と毎日のように言っていて死んで行きました。(宮下泰之氏)


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