満州開拓 富貴原郷開拓団の記憶

満州開拓-富貴原郷開拓団の記憶 - 箕輪町郷土博物館開館40周年記念冊子 - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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夏ともなれば作業の往復道端の食える草は監視の隙を見ては採ってきて、食堂で食事の足しにした。また、道の馬糞が黒パンに思えて誰もが拾ってはみた。子供には馬鹿にされ、唾かけられても手出しも出来ぬ。実に捕虜生活の愚けなさ・惨めさが身にしみるのであった。(向山一雄氏)苦難の逃避行の末、また、長く厳しいシベリヤ抑留の後、何とか郷里に帰還することができた開拓団の人たち。手記からは嬉しさが伝わってきます。久しぶりに辰野駅、急いで下車してみれば、妻子と妻の父らしい。安心するまもなく父のそばに寄り、しっかりと手を握りしめたまま言葉も出ず、ただただ涙がとめどなく流れ出た。(向山一雄氏)家に着いて母は一番先に言った言葉は「良くこれまで痩せて帰ってこられたよ」でした。皆んなで家族同然に仲良く力を合わせたからこそ無事帰れたのです。(松井勝彦氏)親が子を捨て、殺して、生きて帰った人の少なくない当時の状態の中で、この子だけは何としても日本に連れて帰らなければという母親の愛と心の強さに、今尚尊敬しております。(伊澤清一氏)戦争の苦しみに直面し、何とか生きて帰って来ることができた開拓団の人たち。戦後三十七年目に記された手記には、心から平和を願う切実な思いが記されています。私たちは、こうした思いを引き継いで、次の世代へ伝えていかなければなりません。軍国主義日本の誤った侵略戦争が起こした、世紀の大悲劇がここに残ってしまった。二度と再びこの様な悲しい戦争を後世に繰り返させてはならない。平和な世界を願う。(平松俊彦氏)三人の子供たちの眠る満州を思い、この子達の犠牲を無駄にしてはならないと思います。平和ということがどんなに有難いかを忘れてはならないと思います。(浦野しげみ氏)私が今声を大にして叫びたいことは戦争の無い平和世界、核兵器廃絶・軍縮を要望する運動に協力したいこと。まだ中国にいる残留者が一人でも多く帰ってきてほしい。亡くなった方々の御冥福を心からお祈り申し上げたいことです。(倉田作子氏)我々引揚者は戦争の愚かさ・惨めさは、一生涯忘れようとして忘れる事は出来ない事でしょう。この様な悲劇は二度と再び繰り返すまいと、後の世に伝えなければならぬのです。(向山一雄氏)当時日本は軍国主義の政治故に軍人何百万とも知れぬ犠牲者を出し、又異国の岡で望郷の念にかられ、帰りたくも帰れない生きた犠牲者が、罪も無い婦女子が沢山いると思う。又、広島・長崎の原爆の犠牲者等々、こうした悲劇を二度と再び繰り返さぬよう、子孫末代に伝えて、平和な日本が、平和な世界が、永久に続くよう心から祈る者です。(倉田三郎氏)悲しい歴史を振り返ることは大変辛いことですが、二度と同じ過ちを繰り返さないためには、歴史の事実と誠実に向き合い、その原因を解明し、悲劇を繰り返さないためにはどうするかを学ばなければなりません。遠い満州の地で戦争に直面した先人たちの忘れられない言葉は、忘れてはいけない記憶でもあり、過去のこと、他人のこととして片づけるのではなく、その苦悩や辛さに寄り添っていくことが必要です。なお、本来であれば、富貴原郷開拓団について更なる調査を行い、団の運営や終戦後の動き、個人の詳細等について調べなければならないところを、勉強不足により出来ず、そのほとんどを開拓に参加された皆様の記憶に頼ってしまったことを、心よりお詫び申し上げます。また、本書の刊行にあたり、聞き取り調査や史料の提供等にご理解・ご協力をいただきました全ての皆様に、心より御礼申し上げます。


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