満州開拓 富貴原郷開拓団の記憶

満州開拓-富貴原郷開拓団の記憶 - 箕輪町郷土博物館開館40周年記念冊子 - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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おわりに~忘れられない言葉・忘れてはいけない記憶~戦後六十八年が経過し、いよいよ先の戦争の記憶は人々から遠ざかっています。先の戦争には様々な面があり、一言で語ることは出来ませんが、全ての人を不幸にする戦争という行為自体が、絶対に行ってはならない行為であることに間違いはありません。六十八年前、遠い満州の地で戦争に直面し、大変なご苦労をされてきた郷土の先人たちの記憶について、私たちが軽々しく述べることはできませんが、その全てが貴重な史料となった今、特に忘れることができない言葉の一部を記し、まとめとしたいと思います。満州開拓に参加した理由は、人それぞれであった様ですが、狭い日本から広大な大陸に渡って目にした満州の大自然は、大きな印象を与えたようです。夕日が真赤で大きくて、山のかなたへおっこちてしまうという感じに、しばらく見とれていた。(白鳥富美子氏)いよいよ四月になって春の訪れ、野火でもえて真黒になっていた丘が日に日に緑色になってきて、迎春花がいっぱい咲き出し、次につつじやぶ位のあんずの木にピンク色の花が一面に咲き、それはなんとも言えない美しさだった。(植田正子氏)肥沃な大地は多くの食料を生産し、初めの頃は比較的のんびりとしていた様子が窺えます。しかし、時を経るに連れて戦況は悪化し、開拓団員にも召集令状が届くようになります。開拓団員には召集はないと聞いていたのに召集されたことへの怒り、愛する家族と最後の別れをしなければならない悲しみ、手記からは、当時の切々たる様子が伝わってきます。他国に来て、丸裸に焼け出され、何よりも大事な妻子と赤紙により別れて戦地に向うとは、こんな約束ではなかったに、国策に沿って北の守りに行くんだから、在郷軍人は有るけれど召集は無いと言った言葉が憎かった。・・(中略)・・花岡の岡でいよいよ妻子とも最後の別れ。お互いが小さくなるまで、見えなくなるまで背伸びして手を振って、軍歌でごまかし、これが誠に後髪を引かれる思いで、これが最後かと思えば、涙がやたら出てどうにもならなかったあの思い。(松沢政文氏)いよいよ出発、部落の皆様・兄夫婦・妻子等に見送られ団のトラックに乗車、兄は俺の手をしっかりと握り、声は無く横を向いたままであった。あの時の兄貴の顔を思い出しては今でも目頭が熱くなる。(向山一雄氏)また、召集された軍の生活からは、人を人として扱わない軍の不条理が垣間見えます。その折に何か自分の馬だけが蹴る・噛み付く・立ち上がって抱き込む、なんと癖の悪い馬が当ったのだろう。でも仕方がない。地方ならすぐ叩いてやるのに、軍隊とあってはどうすることも出来ぬ。班長いわく、馬は兵器である、お前たちは一銭五厘の葉書でいくらでも来るのであるという有様。(向山一雄氏)敗戦により、それまで表向きは友好的だった現地人の態度は一変し、女性と子供、老人しかいなくなった開拓団を何度も襲撃しました。手記には、開拓団の人たちが遭遇した恐ろしい襲撃の様子や、苦難の逃避行の様子が記されています。その時です、下澤のおばあちゃんが目の前で殺された。これに続いて傷ついていく人も多くなった。義妹さんもその時右腕骨折貫通でした。何人かの重傷者も何日の内に気の毒と言おうか、哀れというか、何の治療も出来ず亡くなってしまった。水、水と叫ぶ治子さんの声が今でも耳の底に残っている。その水さえも充分飲むことも出来ず、何の治療も出来ず苦しんで、若い命も一週間位で散っていった、恋しい母の名でさえ一声もなく亡くなった治子さん、すまなかった、どんなにか母が恋しかった事だろう。(岡石子氏)荷馬車の後に付いて歩く。足が棒の様になった妹は、ついに「歩けない」と泣き出してしまい、荷物の上に腹ばいに乗せたが、疲れて寝てしまい何度もころげ落ちそうになった。こっちを見たソ連兵は、ずかずかと私達の方へ来て、母の着ていた毛糸の袖無しを脱げと言う様に銃に引っ掛け引っぱるのだ。母は私達の手をそっと放し、静かに脱ぎ渡したが、まだ有るのを出せと言うらしく、廊下から何枚かの毛糸の服を渡した。その中に私の大好きな黄色の母の手編みのセーターが有り、私は憎らしくて睨みつけた。ようやくきび畑へ入った。そのとたん鉄砲の弾がビュンと飛んで来た。足元の土が炸裂し、石や土が足に当る。その痛いこと。思わず母を落してしまい、二度おぶり直し歩


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